陸前高田の街にもたらす希望の“芽” ピーカンナッツと共に歩む「サロンドロワイヤル」夢と覚悟の挑戦
ここは、陸前高田。2011年3月11日、東日本大震災で津波の被害に遭い、大きな打撃を受けた場所。いろんな人の思いが交錯して、希望が今、芽吹きだそうとしていた。僕がこの場所に行ったその時、「雄花がついてる!」跳ねるようにその木に駆け寄り、そう口にした人の姿があった。サロンドロワイヤル 代表取締役 前内 真智子さんである。彼女がその手で大事に包み込む、小さな雄花は、ピーカンナッツという食材と陸前高田の街に希望をもたらす“芽”であった。
縁もゆかりもないはずなのに
雄花とは何か?それを語る上では、まず、陸前高田という場所の話を抜きには語れない。陸前高田は、2011年3月11日、東日本大震災により津波の被害を受けた。この日、僕は仙台でマルヤ水産という会社を経営する千葉卓也社長が運転する車で、被災地を回った。そして、目に入ってきたのは、こんな光景。今も残されている震災遺構である。最も簡単に建物が崩壊していて、自然の脅威を感じさせる。
これほどの破壊力を持った津波が押し寄せたのだから、街はひとたまりもない。跡形もなくなり、建物も人の命も失われた。そしてそれは過去ではなく、現在進行形の話である。その後、その危険度から新居は高台の上で建設される。かつて人と人とで賑わっていたその地は、閑散とした大地となったのである。
そして、人が住まなくなったその場所に、植えられたのがピーカンナッツの木である。
それらは東京大学の生産技術研究所と大学院農学生命科学研究科の「ピーカンナッツによる農業再生と地方創生プロジェクト(以下、ピーカンナッツプロジェクト)」によってもたらされた。
そして、そこへの関わりにおいて、欠かせないのがこれから話す「サロンドロワイヤル」の存在である。ヨーロッパ・フランスの『王族たちのサロン』の洗練されたイメージをもとに、1935年、大阪に創業された、老舗のショコラティエである。一見、両者に繋がりはないと思えるだろう。
ピーカンナッツの持つポテンシャルとは?
きっかけは、2016年、彼らのもとに、東京大学生産技術研究所が訪問したことにある。テーマとしていたのは、ピーカンナッツであった。東大の研究所がなぜ、彼らのもとへと訪れたのか。それは、サロンドロワイヤルが、それらチョコレートの商品を作る過程で、ピーカンナッツの国内流通量の三分の一を占めていたからだ。
そして、彼らの言葉に、興味深く関心を示したのが、前内さんなのである。
元々米国アリゾナ州で大規模に栽培されているのがピーカンナッツ。それらは栄養価と抗酸化作用が高く、機能性が高い。また、柔らかく食感が良いので、年齢を問わず支持される素地があり、料理の素材に用いやすく、汎用性が高い。
それなのに、まだ日本では、殆ど流通していない。前内さんが面白い数字を教えてくれた。僕らに馴染みがある“アーモンド”と比較して、ピーカンナッツの流通量が、どれだけか、お分かりだろうか。
その答えは、、、100分の一。
つまり、東大の研究所が着目したのは、それだけのポテンシャルを持ちながら、現在日本ではそれほど、栽培されていないからなのだ。そして、ピーカンナッツプロジェクトに同じく参画する陸前高田市にとっては、ピーカンナッツの栽培の方法において相性が良かった。
陸前高田との距離を近づけたピーカンナッツの特性
そもそも、陸前高田市は、被災したことで、住めなくなった土地の活用を思案していた。
その点、ピーカンナッツは、放任栽培。つまり、整枝などの手をかけないで栽培することが可能で、人の手間がかからない。この小さな街で、育てるには適切な植物であったと考えて良い。
いわば、ピーカンナッツのポテンシャルが両者を引き寄せた。
こちらは海外でのピーカンナッツの農園の写真。それらピーカンナッツを育てれば、このような場所が陸前高田に生まれることになる。
食材としての可能性を感じ、その裾野を広げる必要性。そして、広がることによっての社会的意義。また、それで、被災したその土地を活用することで、その行為は、この街の復興において、大きな意味を持つ。人口の少ないこの地域において、それらの栽培方法が活きてくる。それぞれの大事な思いが一つにつながっていく。
そして、大いなる決断へと至る
前内さんは、取締役会などでも反対意見が多く出る中で、覚悟を持ち、一大決心をした。
これを踏まえて、僕が記事にしようと思った理由は、ここの話なんだ。
確かに、課題を明示し、その理想を語ることはできるだろう。でも、それを形にするのは本当に大変なこと。ちゃんとお金に変えて、成立させなければ、その夢や理想も散ることになる。それは前内さんの経営者としての行動を見ればわかる。僕は、その努力とそれによってもたらされる「事業の価値」と広がる「可能性」の方に焦点を当てたいのだ。
かくして誰も住まなくなった土地には、品種開発と市場性調査のためにピーカンナッツの木が植えられることになった。そして、その横の土地は嵩上げされている。だから、サロンドロワイヤル タカタの本店と、ピーカンナッツを広めるための工場が、建てられることになった。でも、いきなりそれができたわけではない。
この街の人口はわずか1万7000人。お店に来る人の数には限りがある。理想だけに走ることなく、赤字にさせない工夫も考えて決断した。それが工場部分である。
前内さんは、工場ができたことの責任の重さを語る。なぜなら、稼働を止めるわけにはいかないから。止めれば、即赤字である。そこで僕が感銘を受けたのは、作ることに終始しなかったこと。売り先を念頭に置き、そこから逆算して作ることを考えたことにある。
当然だが、売れる場所があって、初めて作ることの意味がある。
工場ができるということの重圧と覚悟
だから、店の立ち上げが決定するなり、彼女は大阪でナッツ事業を創設した。それと共に、これまで培ってきたお菓子の知見を生かして、新たに、それが回るだけのピーカンナッツの流通を作りだした。それは、チョコの商品ではない。全く別事業である。それ専用に、ピーカンナッツをローストし、包装して、商品として開発し直し、売り出したのだ。
なぜ、大阪でやり始めたかといえば、何もない中で、いきなり陸前高田で工場を始めるわけにはいかないのだ。何もないのに、稼働させるわけにはいかない。繰り返すが、稼働させると決めたからには、稼働し続けなければならない。
必死になって、そのマーケットを作る努力の甲斐あって、驚くなかれ、最近では夏だけで3〜4億円の売上を出すほどにも成長した。これで、その骨格ができたわけである。
実は、陸前高田の工場としてはようやくこれで、スタートライン。大阪での築き上げたナッツ事業を、そのまま、この陸前高田の工場に持ってくる。そうすればいきなり、この地で売上を作ることができる。
そして、常に稼働させて、この場所が機能する。ここまでの話はわずか数年ほどで達成しているから尚更驚く。もう、お分かりだろう。そうすることで、ピーカンナッツの栽培から始まり、製造、販売まで、彼らは垂直統合型で、ここに産業を生み出せる礎ができたのである。2022年のことである。
事業が生まれれば陸前高田に雇用が生まれる
それはいうまでもなく、その地で雇用を生み出すことにもなる。だから、この工場の稼働により、店の運営と合わせて、陸前高田の出身の人たちだけで、20名のスタッフが生まれた。今はもう大阪のスタッフは誰もいない。自分たちで回している。文字通り、復興のシンボルとしてのスタートである。
繰り返しになるが、売れてこそ、生産が生まれる。だから、準備は念入りに。店ができる前から、自ら広報的な役目を担いつつ、マーケットを作っていた。東北で人が集まる拠点といえば、仙台と盛岡で、ここに店を構えようと考えた。最終的に行き着く先として、この陸前高田の店がイメージできる道筋を作るためである。
この話が出たときに、まず彼女が訪れたのが「藤崎 仙台店」。それこそ、陸前高田に店すらできていない時期である。店名に“タカタ”の名称を冠することはできなかったが、藤崎に「サロンドロワイヤル」としての出店は叶った。
それで、そこのショーケースには、陸前高田のシンボル「奇跡の一本松」(津波に流されず生き残った木)をあしらった西陣織などを飾っていく。その手は休めることなく、2021年、仙台のエスパルに「サロンドロワイヤル タカタ」として出店を決めるなど、攻勢をかけたのである。
商品力の向上のために
あわせて、商品自体の品質向上も徹底していくべく、2017年には陸前高田にゴールデンピーカン社を作っている。最初にも話したが、ピーカンナッツの「機能性」の部分をより明確にするためだ。それを可視化できれば、商品力の向上となる。お客様からの信頼は、売上を裏側から支える大事な要因となっていくから、これも大事な活動。その機能性部分で配慮したのは、大きく二つ。
一つは、認証実験を行った。具体的には、陸前高田の高齢者施設に協力を要請。1日5粒、食べてもらい、そこでの変化を見たのである。結果、「介護の負担が減った」という優位性が認められたことで、彼らはそれを国際学会で発表したのである。
そしてもう一つは、自ら販売するアリゾナ産のピーカンナッツで、「機能性表示食品」として認可をこの会社で取得したのである。それが2018年で、ピーカンナッツの商材で認可が取れたのは日本初のことだ。
いうまでもなく、それらは食材を語る上での貴重なエビデンスとなる。商品を訴求する上で確かな礎が築かれることとなった。
加えて、製造面では、工場の精度に気を配る。それまで、ピーカンナッツは多くが輸入品。だから、殻が剥けた状態で日本に入り、それを用いて商品化される。しかし、地元で栽培されるなら、そうはいかない。だから、日本初のピーカンナッツの殻剥き機を、自らの工場に実装したのである。
バラバラなピースは一つに集約されてくる
また、この殻剥きの部分がまた、日本にないから、完璧には使いこなせない。そこで、前内さん自ら、その粉砕の機械に関して扱う海外メーカーの社長の元へと飛んだ。前内さん曰く、この社長は苦労人で、より深く、人の思いに共感して、彼女たちの想いに対して真摯に向き合ってくれた。遂にはその社長自らが、この陸前高田の工場へと足を運んで、アドバイスをしてくれたのである。
殻を粉砕することで舞い上がる粉の問題など、現地だからこそ、受けられるアドバイスもあって精度の高い機械の運用環境が整ったのである。
商品力、製造環境、ここに至るまでのプロモーションは、一つ一つ関連性を持ち、深い繋がりを持ってより確かな一歩に変わっていく。そして、彼らは消費者に対しても直接、アプローチするのである。
それが「全国ピーカンナッツレシピコンテスト」なのだ。
料理研究家 浜内千波さんらを審査委員に迎え、選定。第一回目の開催が2019年。まだ、先ほどのお店もできていないから、陸前高田の施設を借りて実施した。
そして、改めて、2024年の今、この店を眺めて思う。そうか。このお店がイベントスペースを兼ねているのは、そういうことなのだ。今後、コンテストを開催するなら、この場所なのだ。だから、料理を作る場面もみれるように工夫されている。
単純に、売るだけでもなく、作るだけでもない。この場が、それらを結集したことで生まれる、人の繋がりを触発させるために機能していく。
ピーカンナッツに夢を抱く人がまた一人
レシピコンテストに関しては、集まったレシピで、書籍も作成。コンテストのジュニアの部で優勝した沼田夏美さんには、ピーカンナッツの本場、アリゾナを視察してもらうと共に、その様子を書籍に綴った。
当然そこには陸前高田の魅力とともに添えて、今まで関わった全ての人たちの想いと努力の結晶を詰め込んだのである。
わかるだろうか。一つのことを結実させるために、あらゆる配慮を行き渡らせている。今この場所が成立しているのは、事業者としての覚悟あってのこと。バラバラになっているピースを大事に当てはめて、作り上げて、この工場、お店、ピーカンナッツ農園にたどり着く。
そして、最初に戻る。一緒に行ったマルヤ水産の千葉さんとともに、陸前高田の町を訪れ、この取材を行って、案内を受けているその時。初めて、前内さんは、ピーカンナッツに雄花をつけていたことを発見するのだ。
ここまでの数々の苦労と行動力を鑑みれば、その感動は、言葉にも、し難いものである。
実がならなければ、ピーカンナッツプロジェクトは意味をなさない。だから、今日、この日雄花がついたことがどれだけ大きいことか。そして、雌花がついて、初めて実をつける。この雄花は正真正銘、全ての第一歩なのだ。
「雄花がついてる!」その時、パッと明るくなった前内さんの表情が忘れられない。まさにそれは、希望の“芽”である。どうかこの芽が、陸前高田と、ピーカンナッツのこれからを明るく照らし、前内さんのこれまで力を尽くした数々が、実りある結果となるよう、未来へと導いてくれることを切に祈る。この文章をエールに代えて贈る。
今日はこの辺で。