Who is 145?

「145マガジン」に至る経緯

不器用ながらひたすらずっと“挑戦”し続けてきた。

 145マガジンの「 145 」は創業者 石郷 学(Manabu Ishigo)の名字の当て字です。並々ならぬ、覚悟と想いを持って メディア を立ち上げました。その原点は僕の過去の話にあります。

最初の絶望からの僅かな光

1.人の話を聞く仕事をしよう

 「なんでこうもうまくいかないものなのかな」そう呟いていました。社会人になりたての僕です。就職氷河期といわれながらも、周りが就職する中、僕はうまくいきませんでした。

 それで、ハローワークで仕事を探していたのです。就職活動がままならず、大学を出ていながら。親に申し訳なくて、でも仕方なくて。

 でも、いい意味で、既に階段を踏み外している部分があるから、と開き直れました。

2.奮起できないかといった先がメディア

 それで、ひょんなきっかけで、僕はハローワークの職業紹介の講座に足繁く通う事になります。「僕は人の話を聞くのが好きだ。それを活かせる仕事をしよう」と思って、メディア系の企業を目指す人の講座にいく事になるのです。

 その講座では、先生らしき人がいたので僕は聞いたんです。「今、メディアに入れていないのに、今からでも取り返すことができますか」と。

 すると、「3年は我慢して、小さなメディアでもいいからやり続けたら、大きなメディアも含めて活路が見えるよ」と。

3.夢ある雑貨の世界を聞いてみたい

 それでメディア一本でハローワークで探す日々。見つけたのは「ファンシーショップ紙」。おもちゃや雑貨に憧れを抱いていて、この業界で「話を聞いてみたい」そう思った僕は、履歴書以外にも簡単なイラストを添えた自己プロフィールなどを用意して、プレゼンしたんですよね。

 それが功を奏したのか、それまでそこで働くライターは全員が女性だったのに内定が取れました。まさに、僕の社会生活はそこから始まりました。

 キャラクター業界の業界紙「ファンシーショップ紙」の記者となり、その記者って肩書きがついた名刺を見て、心が躍ったのを今でも覚えています。

光からまた辺りは暗く

1.何を書いても修正の赤字だらけ

 ただ、意気揚々と入社して、取材をしたり記事を書いたりするものの躓くのです。何を書いても赤字で埋め尽くされ、苦痛の日々が始まりです。文章が下手だったんですよね。僕はこう呟いていました。

 「なんでこうもうまくいかないものなのかな」挫折を乗り越え、待っていたのは挫折の社会人スタートでした。

 「ダメ記者」そう言われていましたし、お荷物だったと思います。そのイメージは1年半、ずっと消えませんでした。社内外問わず。今でも忘れませんが、タニイというタオル会社で商品企画をやっていたオガタさんって方がいて、とにかく「何?この子。」と。明らかな嫌悪でした。ただ、後になってわかったのは、ダメ記者だからではなく、自分に自信がなさそうだから、そう言っていたのだと。それがわかってからは、僕が好きな取材相手でしたね。

2.でも諦めることはしなかった

 さて、話は戻って、「ダメ記者」の僕は、当時のその業界誌の社長に、ずっと文章の書き方について教わっていました。口は悪いのですが(怒られるな)、あたたかい人ではあったので僕にとっての恩人です。「お前の文章はまどろっこしいんだよ!」テーブルの上で、社長と二人だけで、そうやって指導を受けながら、僕は鍛えられました。

 冴えない日々は続きました。でも、ハローワークで心に決めて「自分で選んだ道だから」と、諦めずに来る日も来る日も、取材と文章と向き合っていました。今思えば、実はそれが良かったのかもしれません。ある日、まさかの事態が起こります。

 「ええええ!て、ことは僕一人・・・」当時、そのメディアの看板編集者である先輩が会社を辞めることが明らかになって、社内全員が、この先大丈夫かと焦った事だろうと思いますが、これが僕には大きかったんです。

3.暗闇から本当の光が見えてきた

 それで、僕より文章も上手で優秀な後輩編集者が入ってきました(悲)。ただ僕は「役割分担だな」と割り切って考えて、文章の上達を心掛けつつも、「僕は切り口や企画力で勝負しよう」そう心に誓うのです。これがまさかの転機を呼ぶんですよね。

 本当に熱心にネタ探しをするようになったのです。それで、サン宝石という会社のニュースを見かける事になります。「原宿の竹下通りに、お店をかまえる」というただそれだけの事でした。でも、いろいろな情報収集をしている中で、これはブレイクする予感がしたんです。すみません。理由はわからないんですけど。苦笑。それで、人生で初めて、人から言われる事なく、自分で切り口を考えて、自分で取材先にアポイントを入れて、調整して取材に臨んだのです。

大ブレイクを目の当たりにする

1.サン宝石で初めて感じる「掴んだ感じ」

 僕はその光景を見て驚きました。サン宝石のお店前では、中学生くらいの女子が長蛇の列を成して、この商品を買うのをいまや遅しと待っていたのです。買うまで一時間半待ちの状態だったのですから、その熱狂ぶりがわかります。

それを目の当たりにした時、この中学生の世代が気になったのです。「ニコラ」「ピチレモン」「ラブベリー」などのジュニアファッション誌と呼ばれるものを買って「領収書、お願いします」なんて言って、怪しまれるのを避けながら(笑)自腹で払って研究。それをするほど、この世代のポテンシャルを強く感じるに至ります。

2.これだ!エンジェルブルー

 わかってきたのは当時、共通してそれらのファッション誌には同じブランドが出ているということ。エンジェルブルー、デイジーラバーズ、ポンポネットなどのブランドです。それらは全て「ナルミヤ・インターナショナル」という会社が出稿している事がわかりました。

 彼女たちはジュニア世代と呼ばれ「お下がりではない」小・中学生の為のファッションブランドを颯爽と着て、キラキラしていました。

 逆にそれらブランドが脚光を浴びるほど、僕は文房具・雑貨がない事に違和感を感じたのです。小・中学生が一番、使うものなのに。だから「それが出たら、かなりの爆発力があるよね」当時の僕はそう編集後記に書き込むなりして、地道に自分のアピールを開始します(笑)。

3.全く未開の地を切り拓く

 するとある時、営業から「お前、やってみるか」と言われたのです。何かというと、実は文房具会社が動いていて、そのナルミヤブランドの文具が出ることが決まったと。それで広告依頼するに合わせて、書いてみるかと。

 「やります!」即答です。これは偶然なのですが、特にページ数が多い夏の号だったこともあり、ナルミヤ特集を2ページ。それに加えて、バンダイをはじめとして、中学生向けのコスメなどが出ていることを、僕は指摘して、それも2ページ企画しました。ジュニアモデルの取材まで入れて、隅から隅まで、こだわった初めての特集でした。

 ただ、そこまで力量を入れる人が少なかったのは、「そんな中学生しか知らないブランドがくるわけないでしょ」という声が大勢だったからです。業界紙すら、本当に告知程度に記事を書く程度。それに対して、僕はモデルへの取材なども含めて徹底取材しているのだから、もし、ブレイクすれば、それは際立つ事になりますよね。それを読みたいと。だから、本当に驚くべきことが起こります。

記者をやりつつ、ブランドを展開

1.ナルミヤ文具が大ブレイク

 「ほらな!」僕は一人、渋谷でガッツポーズをしていました。夏の日のそれらのナルミヤ文具の発売日、売り場は物凄い行列ができていました。僕はその予測を当てたことで、先ほどの記事が脚光を浴びることになって、「あいつ面白い」と人が寄ってくるようになったのです。

 手のひらを返したように、「石郷さんはなんで、あれわかったの?」「教えてほしい」と多くの人が僕に話を聞きにきました。次は何が流行るか知りたいからですよね。ここを境に「できない記者」という僕の評価は一変してしまいました。

2.ライターなのにブランドを立ち上げる

「よし!今度は本人を呼んでみよう!」僕はその業界紙でのイベント「異業種交歓会」にそれらのジュニア・モデルやニコラの創刊編集長 宮本和英さん、ナルミヤ・インターナショナル当時の社長成宮雄三さんを招くなど、そこに関連して様々な企画を手がけます。僕は徐々に記事を書くだけではないちょっと変わった名物記者へと変わっていくのです。

 そしてまたもや変わった行動に出ます。この辺から、今の僕の片鱗が出てきます。「nocola」モデル 小林涼子さん、「ピチレモン」モデル 御前美帆さんら女子中高生と共にブランド「ラブサイン」をその「ファンシーショップ紙」内で立ち上げることを会社に提案するのです。

ラブサイン
ラブサインのモデルや一緒に手掛けた方々

 実はこの発想自体は、先ほど、登場した社長のアイデア。僕はクリエイターとしても尊敬しているのですが、それは交通標識をハート型にするというアイデアで「恋のサイン」というのを出していたのです。

 そこで、僕はハートマークの中にいろいろな模様を入れるようにアレンジして、それをモデルと一緒に考えてコンテンツ化する方向にしたのです。コンセプトは“恋する気持ち”。それを商品の一部に入れて、自分の意思表示をしようというテーマにすれば、ちょっとドキドキしますよね。

3.等身大の女の子の気持ちを形にする

ただ、僕の真の狙いは、多感な女性達の発想を商品企画に生かすことにありました。常に彼女達の声に耳に傾け、それを商品開発に反映すると言う視点で、モデルを交えての商品会議は頻繁に行われました。

 それは10社以上から関連グッズを発売させるに至り、リプトンのキャンペーンや、ファンタのキャンペーンにも起用されるのです。

未来への夢が変わった出来事

1.運命のサンシャインシティアルタ

 「三越伊勢丹から話が来ている」

 それは思いがけず、来た話でした。「サンシャインシティアルタの1階で6坪なのですが、ワゴンを貸します。なので『ラブサイン』のミニショップを1週間程度、やってみませんか」と。

 「やりたい!」そう言って、僕は社内はもちろん、「ラブサイン」のライセンシーの方々を集めて、「ここへの商品提供をお願いできないだろうか」そう頭を下げました。なんとも無謀です。記者経験しかないので、掛け率云々、全く小売を知りません。

それでも、ライセンシーたちはそれに賛同し、晴れてここにショップを出すことになります。

2.無理やり店を成立させる

 お店のレジに立つ人がいないとわかると、お茶の水美術学校で先生をしていた駒井さんに「生徒の方にお願いして、バイトに立ってもらえないだろうか」と相談。駒井さんは、元ソニー・クリエイティブプロダクツで以前からその存在は知っていたので、藁をも縋る想いでお願いしたのです。

 「うーん、それであれば、張り紙出してみましょうか」求人票を書いて、提出します。結果、なかなか集まりません。涙。半ば、駒井さんの後押しのおかげで生徒さんがきてくれることになり、遂に環境が整いました。

3.皆の気持ちが一つに

 生涯忘れられないこのショップでの体験がこうして始まります。本当に驚きの連続だったんです。

 いざ、これから始めようという時のこと、「花が届いています」と言われます。そんなはずはないよと言いながら、恐る恐る見ると、本当に「祝!ラブサインショップ」と書いてある。誰なの、と思ってみれば、それは、最近まで一緒にこの「ラブサイン」で関わってくれていた方からのお祝い。その彼女は参加できないけど、何かできることはないかと言って、それを送ってくれたのでした。

 そして一番の思い出は、1日だけ、一緒に「ラブサイン」に取り組むモデルがきてくれた時の話です。実は、その時、福袋の商品を売り出したものの、全く売れておらず、僕は一人悩んでいました。

4.思いがけないモデルの発想

 そんな中、モデルの一人がパッと駆け寄ってきて「これをつけたらどうですか」そう言われて、カバンを開けたんです。なんだろう?見ると、それは「ラブサイン」でのアクセサリーのサンプルでした。

 これをつけていれば、このくらいの価値はあると思ってもらえますよね?そう言われて、「よし!そうしちゃおう」と言った時に、皆が、それをせっせと福袋のホッチキスで止めていくわけです。

5.発想から生まれた長蛇の列

 ここからが驚きなのです。一個も売れていなかったその福袋に、長蛇の列ができたのです。そしてモデルも声がけをし始めます。

 人って凄いですよね。まわりがそれに心を動かされるんです。レジをやっていたお茶の水美術学校の生徒さんたちは、自分達の才能をフルに使って、ポップを描き始めるんですよ。さすが可愛らしく絵を入れたりするんです。何が凄いって、正直、「先生に言われたから来た」なんて言っていた乗り気ではなかった子も、率先してやっているのです。そりゃ感激しますよ。

 そして、ポップをつけたその商品も売れ始めていくんです。そこでの一体感は、僕の生涯、一生忘れることはないでしょう。

忘れられない一体感は果敢に挑む自分を作った

1.「ありがとう」に対してのまさかの返事

 そして、そのきっかけを作ってくれたモデルの小林涼子さんに「本当にありがとう」と言ったときに、彼女はこう言ったんですよね。

 「石郷さんは、始まる前にこう言っていたよね。ここに並ぶ商品は、あなたたちの声を取り入れて、作ったものです。だから、ここで一つでも多く売って、恩返しをしなきゃならないってね。」

 だから、自分で考えて、それを提案したんです、と。

2.記者だけではない自分になろう

 僕はその話を聞いて、ウルウルしたのでした。実は、これらがあったことで、僕の中の「メディアに勤めて一生飯を食えるようにする」という夢は変化していくのです。

 自ら、こういう企画を起こすことができないだろうかと。そのためには小売を知らないといけない。挑戦の意味で、スパッと記者を辞めてしまうのです。門を叩いたのは、なんと畑違いのジュエリーのEコマースサイトだったのです。それが「Jwell」です。

ジュエリーの経験を経てモデルと組んで

1.下代で2万以上で送料無料

 「下代で20,000円以上で、送料無料でいいから」。

 僕がJwellに入った当初、商品をとあるメーカーから、そう言われてチンプンカンプン。「そんな言葉も知らないの?」という話ですが、記者だったので小売の知識は皆無。それが当時の僕でした。それだけ無茶な挑戦をしているってことでもあります。

 おまけに僕は細かい作業が苦手。Eコマースでの業務内容を知るために、カスタマーサポートの仕事もさせてもらえば、なんとまあ手際の悪いこと。

2.最初のジュエリーの商品企画

 でも、ありがたい話、会社からは商品企画のチャンスをもらって、甲府の工房Gleamさんと「うてちん」こと右手愛美さんらとジュエリーを企画します。やりたいことはできたんですよね。右手さんは「ピチレモン」という雑誌モデルをやっていて、彼女たちと共に、商品の企画をしようという取り組み。確かに「ジェイウェル」は仕入れが中心でしたから、それ自体が目新しい要素ではありました。

 ようやく掛け率などのことがわかってきたとはいえ、商品を作るというものを僕はわかっていませんでしたし、今思えば、会社の人も自ら作るという事に関してそこまで詳しくはなかったのだと思います。彼女たちの発想をそのまま再現して、原価を考えることなく作ってしまい、割高な商品となってしまった上、プロモーションをかけることすら企画できなかった僕。またもや今度は、商品企画で、大きな挫折を味わうことになりました。

3.ペットアクセも『THE KISS』と企画

 さらに、僕はモデルの企画と合わせて、『THE KISS』というブランドに社長と共に伺い、ペットと彼女のペアアクセという企画を持ち込みました。

 要は、『THE KISS』がペアアクセサリーで有名だったのですが、それはカップルを意識したもの。ならば、ちょっと切り口を変えようと、ペットとのアクセサリーを手がけた。よくまあ、考えたものですが、例えば、彼氏が彼女にプレゼントをするとして、それが彼女が大事にするペットとのペアアクセだったら、その彼女は「ペットのことも考えてくれているのね」と考えてはもらえないかと、思ったというわけです。

 しかし、尖った企画すぎましたね、、、反省。

ジュエリーでの失敗を糧に取り返す「みっこジュエリー」

1.商品MDにトライ

 ジェイウェルには感謝の気持ちもありながら、貢献できていないことへの思いもあり、新たな旅立ちを決意し、それが当時のフィール・ジーという会社で、アイフリークの関連会社でした。

 実は、アイフリークというのがまた縁があって、以前、上記で「ラブサイン」をデコメールで起用してくれたモバイルコンテンツの会社です。実は、そのデコメール(今で言うところのLINE)の価値を底上げするために、デコメールでギフトを送る(今でいう「LINEギフト」のようなもの)ギフト事業として立ち上がった会社が、フィール・ジーでした。

2.図らずも再び、ジュエリーの商品企画をすることに

 最初は商品の仕入れなどを主にやっていたのですが、そのギフトサイトとしての差別化をするために、オリジナル商品を作ろうという発想に至ります。当時、non-noのトップモデル矢野未希子さんとのジュエリーの企画を社内で提案したのです。

 ただその企画に対しては「何を言っているんだ」と言われても仕方がないんです。その理由として、デジタルコンテンツの会社なのに、商品の在庫を持って販売することに対しての異論。それに、メーカーですらない会社が、そんなトップモデルにお願いしたところで、一緒にジュエリーを作る話に乗るはずがないということからでした。

3.みっこジュエリーが実現

 しかし、ここが「お前のやっていることは理解できない」と言われるところで、そのトップモデルであるはずのみっこジュエリーを実現させてしまいます。

 何より大きかったのは、みっこちゃんこと、矢野未希子さんの当時のモデル事務所の社長の後押しでした。僕がみっこちゃんと共にジュエリーを作らせてほしいとお願いに上がった時に、そのモデル事務所の社長は、まさかの快諾をしてくれたのでした。

 トップモデルなのに?と思われるかもしれませんが、人生って繋がっているんだな、と思わせるエピソードであって、それはこんな理由からでした。

 そのモデル事務所は、実は、先ほど、ラブサインで協力してくれたモデルが所属していた事務所だったのです。そして、そのモデルたちが懸命にそのブランドに打ち込む姿を見ていて、そのモデル事務所の社長は、石郷さんならうちの矢野も大事にしてくれるだろうと言って、そのジュエリーの企画の背中を後押ししてくれたのでした。

4.会社の決起会で賞を受賞

 さて、そこで始まった矢野未希子さんとのジュエリー企画。前回の反省に基づき、彼女の主張は尊重させつつ、原価と卸値と、そして上代(定価)のバランスを考えて、成分やデザインを構築して、幾度となく打ち合わせを繰り返した結果、実現に漕ぎ着けます。

 当初、自社でのオリジナル商品を謳っていましたが、要望も強く、売り先を増やして展開をしました。そのプロモーションの大事さを痛感していたので、non-noやSteady.、Amebaブログなどと連携。

 中でも、忘れられないのは、non-noのオリジナルバージョン。仕掛けも抜群で、non-noの表紙をみっこちゃんが飾り、めくった最初のページにみっこジュエリーが掲載されて、それがnon-noの通販ページに飛べるようになってるという出来すぎたストーリー。そりゃ売れます。その日の朝、何冊もnon-noを買い込んで、それを会社の朝礼で説明した時の興奮は忘れられません。

 ヒットを引き寄せ、リベンジを果たしました。当時の会社の社内で表彰されるに至り

その盾には矢野未希子さんのサインを書いてもらい(下写真)今も大事にしています(笑)。

矢野未希子さんと
モデル矢野未希子さんと会社から授賞した賞を手に喜びの記念撮影。

5.健食にも着手しそこでの独特なアイデア

 その後、ジュエリーにとどまることなく健康食品の企画にも挑戦。それもかなり奇抜なアイデア。

 ダイエットサプリの多くは、大きなボトルに入っていることが多かったんで、敢えてフリスクケースに入れて売り出したのです。それが「ポケス」。

 「これであれば、焼き肉を食べる前にサクッと飲める」と。「必要に応じて持ち歩ける」というコンセプトはネットプライスなどで、ウケました。手掛ける企画の幅も広げて、その後、自分の人生にはなかった営業の経験も初めてしました。

自分で美容商材、洗顔ジェルに挑戦するも挫折

1.僕の暗黒時代

 その後、昔から知る人の勧めもあり独立をして、自分考案の洗顔ジェルを販売。ただ、自分を過信していたのかもしれません。

 何より健康食品についての知識だけで、美容に関しての知識がなかったことが仇となり、売れる商品にできませんでした。まさに黒歴史。

 なぜでしょう。美容系の商材はいわゆるサロンと呼ばれるところで販売されるものと、市販で売られるものとがあります。サロン商品は、サロンに勤める専門家からお店で施術を受け、薦められることで購入するので、それ相応の品質を盛り込み、金額も高いものが売れていくのです。それに対して、市販のものは価格に対してシビアな傾向があります。

2.美容の不勉強が招いた人生最大の危機

 僕は市販向けの商品でありながら、サロンを主に扱う工場の方に品質の良いものを作ってもらうことを依頼したため、市販のものにしては原価が高く、結果、定価も高い洗顔ジェルを作ってしまったのです。

 ここからは転がり落ちるように地獄です。ネットショップに提案しても売れません。仕方なく、温浴施設に自ら電話をして、実演販売の許可を取って、売り歩く日々。売れなくて、途方に暮れたことは、数しれません。でも、下の写真の通り、買ってくれたお客様からお弁当の差し入れをもらったり、人の優しさが身に染みた時期でもありました。

お客様から弁当の差し入れに涙

 とにかくお金がない。そう言って、僕はこの洗顔ジェルを売る合間の時間を、日雇いバイトをして、日銭を稼ぐこともしていました。ただ、不思議ですよね。その時の現場監督の人とはいまだに繋がっています。当時、単なるバイトですから、圧倒的に向こうのが上なのに、最近の僕をみて、お酒を片手に、石郷くんは凄い、尊敬するよって讃えてくれたのが本当に嬉しかったですね。

3.ボロボロになって落ち着いたところで響いた父の言葉

 その後、もう独立はしない。そう思い、ビューティゲートという美容系の問屋に助けてもらい(拾ってもらいと言ったほうが正しい)、営業を軸に、仕事をさせてもらいながらも、そこで1年経ったある時、とある言葉が耳に残ります。父が「(お前は)好きなことを仕事にしているんだよなぁ」という言葉。讃えるようにそう言われました。

 そこで思ったんです。「本当は物書きこそが、自分のやりたいことなのではないか」と。人生は一度きり。思い切って編集者としての道を再度、模索することになるのです。

苦しい経験もありながら、EC業界メディアの編集者に

1.ウェブメディアの成長に打ち込む日々

 そこで出会ったのはEC(ネット通販)業界の専門メディア「ECのミカタ」。そこで再び、編集者となりました。記者としてはブランクもありますし、少し前の黒歴史で分かる通り、手痛い経験もあります。初心に帰るべく、肩書きにも拘らず、いち記者として入社し、奮起しました。

 本当にスタッフの方々に恵まれていたのだと思います。敢えて言うなら、ECのミカタのフリーペーパーや業界相関図などは成果を上げる一方で、ウェブメディアに関しては、まだ成長の余地がありました。自分の書く力を信じて、媒体価値の底上げを謳います。

 記事はコンスタントに掲載されていても、その記事のひとつひとつが信用たり得る価値を持つこと。敢えて言うなら、それに打ち込んだという事になります。あとは当時の関わってくれた皆のおかげです。

 そして人生はわからないものですよね。その功績は讃えられ編集長にも就任することとなったのです。その時の写真ですがサプライズで祝ってくれて、本当に嬉しかったです。

編集長就任の様子。あたたかいECのミカタの皆さん。

2.編集長としてより媒体価値を上げる為に

 その後は、前にもまして、記事執筆を打ち込み、編集部を率いて、マネージメントをするとともに、講演などもこなしました。それは皆にとって当たり前に、「ECのミカタ」が認知される存在になれば、と考えてのことでした。信用が一番なので。気づけば編集長として約5年近く務め上げました。特に、創業者の小林亮介さんには個人的には創造する力など、リスペクトしていますし、本当に感謝しています。

EBSでも講演しました
ネットショップが集うイーコマース事業協会の周年イベントでもモデレータをやりました

様々なジャンルに飛び込んだのは個性になった

1.起業の理由

 そして起業。いろいろ考えました。正直に話せば、学生時代に出会った「ほぼ日」をずっと追い続けていたんですよね、社会人として。それは不思議と「ラブサイン」での経験と重なります。僕はライターとしてやりながらコンテンツを生み出して商品も生まれて、これだけ心を動かすことができるんだという「ラブサイン」で取り組んだ事は「ほぼ日」で文章を起点に通販やイベントで人々を魅了しているのとオーバーラップするんです。

 僕は糸井重里さんじゃないから、同じことはできないけど、僕なりに近しいことができるんじゃないかと。それを横目で見ながら、キャラクター、ネット通販、ジュエリー、美容健康業界、メディア運営とあらゆることを経験してきたのは、常にその可能性を模索していたからです。やっぱりやってみたいんですよ。メディアを起点に商品を生み出したり、イベントをしたりする、ほぼ日みたいな世界を自分なりのやり方で、具現化するということを。

 どこかにあるビジネスではありません。儲かることを目指すなら、こんな道を選ばない方がいいです。でも、僕はライターから始まっている通り、クリエイターですから、仕事もクリエイトしたい。それで始めたメディアです。今までにない稼ぎ方にトライしているんです、人生かけて。それが僕の生き方です。

法務局に会社を登記しに行ったその日の事。それを宣言したその瞬間。
法務局に会社を登記した日の事。皆から拍手をもらいました。

2.やりたいことで謳歌する人生があっても良いのでは?

 でもね、本当はこのメディアの構想を思いついても直前で躊躇していました。でも、それを奮い立たせてくれたのが、起業から間もないその時に届いた予期せぬ応援の花束。おかげで腹が決まったんです。

不思議なもので、このメディアの説明で書きましたが赤字だらけだった「活字」が今の僕を支えています。だから、僕も恩返し。活字を起点に必ずや人や企業は救おうと心に決めたんです

 のぼり下りのある人生ですがまた登り坂をこれから必ずや駆け上がっていきます。懸命に生きているからか、誰かしら救ってくれて、いつもまわりに人がいて、だから「人を第一に」素敵に世の中を変えたい。よろしくお願いします。こんな長文、最後までもし読んでくれている人がいたら、心より御礼申し上げます。

 ※最後に、先日、OZIEの店長にして、柳田織物 代表取締役 柳田 敏正さんからお誘いがあって、こんな動画で想いを語っていますので、よろしければ、ご覧ください。

こんな僕ですが、どうか、宜しくお願いします。

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