“データで一人を動かす”──JR東日本が描くリアル×デジタルの顧客体験革命

移動と生活を支えてきたJR東日本が、大規模な変革期を迎えている。Suica・えきねっと・JRE POINT。──長年それぞれ独立して伸びてきたサービス群を“ひとつのID”へと束ね、5,000万人規模のデータ基盤を構築した。その目的は明確だ。「個」客体験の実現である。LINEヤフー BIZ Conference 2025 のステージに、JR東日本のデジタル戦略を担う人物が揃って登壇した。マーケティング本部 戦略・プラットフォーム部門 デジタルビジネスユニットの 星野知久氏、同ユニットの 仲條浩文氏──。
膨大な移動データ、駅ナカでの購買情報、そして生活シーンを結ぶSuica。これらを統合し、日常の接点であるLINE・Yahoo!と連携することで、これまで不可能だったパーソナライズが現実になりつつある。
鉄道という巨大インフラでありながら、“ひとりの今日の気分に寄り添う”サービスを志向する。今回のセッションではその裏側を紐解きながら、JR東日本が目指す未来の顧客体験を探る。
「Suicaを“移動のデバイス”から“生活のデバイス”へ──JR東日本のDX戦略の核心」
JR東日本の戦略の中心にあるのは、“移動”と“生活”の接点を再定義するという、大胆かつ本質的な問いだ。「Suicaは、ただ電車に乗るためのカードで良いのか?」という問いである。
これまでSuicaの役割は、駅の改札をスムーズに通過するための手段だった。しかし現実には、鉄道利用そのものが生活動線であり、通勤・通学・買い物・地域利用など、日常の時間と感情に深く入り込んでいる。この日々の営みから自然に生まれる膨大なデータこそ、JR東日本は“生活デバイス”と呼び始めた。
そして2025年、Suica・えきねっと・JRE POINT・各駅ナカの購買データを一気通貫で結ぶID統合が進んでいる。これまで縦割りで存在していたデータを“ひとりの生活”という軸で捉え直すことで、はじめてパーソナライズは実現する。
たとえば、朝の通勤で利用している路線、よく立ち寄るコンビニ、帰宅時に買い物をした駅。これらはすべて“生活のリズム”を示すシグナルだ。JR東日本はこれらを単なるデータと捉えるのではなく、「その人がどんな一日を過ごしているか」の文脈として解釈しようとしている。
この思想の裏側には「日常の延長線上にある利便性が、人の行動を変える」という確信がある。いつも使っているSuicaとLINEの上に自然に乗る形で体験を設計する。ユーザーが意識せずとも“便利だから使ってしまう”状態が理想なのだ。
「“生活の中の接点”をつなぐ──LINE×JRE POINTが生んだ強力なパーソナライズ基盤」
JR東日本の顧客体験戦略の裏側には、LINE公式アカウント「JR東日本ChatBot」の存在が欠かせない。最大の接点は“運行情報の配信”。つまり日常の「気になる瞬間」に触れられるチャンネルである。毎日使う路線の遅延は、自分の生活に直結する。だからこそ、人はこのアカウントを消さない。
その“消されない接点”に、JRE POINTのIDを連携させる。これが意味するのは、汎用的な情報配信ではなく、「あなた」に対して届けるコミュニケーションの実現だ。
ミニアプリを導入してから、ライトユーザー層の獲得は急増した。アプリをダウンロードしない層にも、LINE上でポイント管理を提供し、使いやすさのハードルを下げた。結果としてミニアプリ経由での会員登録は4.4倍に成長。自社アプリ・ミニアプリの“使い分け文化”が自然発生したのはJR東日本も予想外だったという。
これは、ユーザーが“自分の生活動線の中で一番使いやすいチャンネル”を選んでいるということだ。アプリを開きたい時もあれば、LINEの中で完結したい日もある。この揺らぎを前提にした設計こそ、真の顧客中心設計と言える。
ID連携が進むと何が起きるか──。旅の配信を行いたい時、“旅行に興味がありそうな人”を精度高く抽出できる。趣味嗜好データ、過去の行動データ、クリック履歴。それらを掛け合わせた“動く可能性の高い人”へのアプローチが可能になる。
「個客体験を支える“データの背骨”──JR CDPとLINEの統合基盤」
今回のセッションでは、LINE活用が単なるマーケ施策ではなく、JR東日本の複数事業を横断する“課題解決プラットフォーム”として機能している点が、非常に印象的だった。鉄道の運行情報からSuicaの利用拡大、JRE POINTの活性化、観光動線の創出まで──各部門が抱える課題をLINEが一手に引き受ける構造は、スライドで明確に示されていた。
またJRE POINTを中心に、Suicaの移動データ・改札データ・購買データ・決済データが統合される「JR CDP」の全体像も公開された。鉄道会社という枠を越え、“生活動線そのものを読み解くデータ基盤”をつくろうとしている意志が表れている。
さらに、良質な顧客体験 → ID連携 → パーソナライズ配信 → データ分析 → 改善、という“個客体験の循環”がフローとして整理されており、JR東日本が掲げるOne-to-Oneの世界が構造的に動いていることがわかる。
旅行施策では、趣味嗜好(旅行)×旅行意向(地域)×クリックデータという三層の掛け合わせで、JRデータ単体ではアプローチできなかった“旅行好き層”の抽出が可能になったことを明示。さらにYahoo! JAPANの位置情報と連携し、実際にスキー場へ行ったかまで検証していたのも象徴的だった。
「クリック率24%、来訪率2倍──データが“移動の意志”をつかむ瞬間」
データ連携の価値がもっとも鮮明に表れたのが、旅行関連のプロモーションだ。従来、鉄道会社が持つデータだけでは「この人は旅行したいか?」まではわからなかった。過去の決済データや乗車記録だけでは、未来の意欲までは読み解けない。
そこで活きたのが、LINEとYahoo!のデータである。趣味嗜好・検索行動・位置情報──これらを掛け合わせることで、潜在層にまでアプローチできるようになった。特に旅行意向セグメントでは、開封率54%、クリック率は7.5%。配信後に“実際にクリックしたユーザー”に対して再度リターゲティングをかけたところ、開封率が 約71%、クリック率は 約24.3% 。これは業界でも異例の高さだ。

さらに注目すべきは、クリックユーザーへの再配信で、開封率71%を記録した点だ。つまり「動きかけている人」に再度声がけをすることで、熱量を確実に前へ押し出すことができる。データが“意志の萌芽”をつかむ瞬間だった。
スキーキャンペーンでも同じ現象が起きた。LINE広告とYahoo!広告を組み合わせた施策では、広告接触者の来訪率は非接触者の約2倍に跳ね上がった。位置情報データを活用することで、本当にスキー場まで行ったかまで追えるのは、まさにリアル×デジタル時代の検証の姿だ。
移動の意志をつかむ。──鉄道会社にとって、これは新しい価値創造の始まりである。
「利用回数6倍。ポイント利用率1.6倍──“日常の行動”を変えるのは、結局プッシュ通知だ」
行動変容は、必ずしも大きなイベントから生まれるわけではない。JR東日本がSuicaの利用促進で得た答えは、「日常ラインの中にある小さな後押し」だった。
1万ポイントキャンペーンの際、LINEで案内を受け取ったユーザーは、Suicaの利用回数・利用金額がどちらも全体比で約1.6倍に増加した。特にライト層で大きな伸びが見られ、翌月・翌々月まで増加傾向が続いた。

LINEは日常的に開くアプリであり、“自分に届いたメッセージ”という感覚が強い。だからこそ、同じキャンペーンでも「自分ごと化」されるスピードが圧倒的に違うのだ。
JRE POINTの有効期限通知でも同じ現象が起きた。
メルマガ・アプリ通知・バナー。──複数チャネルで配信したが、もっとも利用促進効果が高かったのがLINE配信だった。LINE未利用者比で1.6倍。
人は“忘れる生き物”だ。だから、日常的にふれる場所から軽やかに知らせてくれるだけで、行動は変わる。JR東日本のデジタル戦略の強さは、「難しいことをしない」点にある。人の感情に寄り添ったデジタル接点を丁寧に積み重ねることで、大きな行動の変化を生む。
鉄道会社がデジタルで生活者の行動を変える。──それは派手な技術競争ではなく、“生活動線の理解”から生まれるものなのだ。
「ポスターでも声がけでも動かなかった人が…LINEでは48%が“中央口”へ──行動変容のリアル」
大井町駅の混雑緩和施策は、顧客体験の本質を突いている。
ピーク時、東口・西口は混雑し、中央口は空いている──これは多くの駅で見られる現象だ。しかし、人は慣れた動線からなかなか離れない。駅員の声がけでも、掲示ポスターでも行動は変わらなかった。
そこでJR東日本はLINEを使った“1対1の行動変容施策”に乗り出した。ポイントは 「中央口を利用したことがある人」だけに絞った配信 をしたことだ。
LINEの路線登録、JRE POINTのSuica改札情報。──その両方が揃っていたからこそ、この精緻なターゲティングが可能になった。結果は驚異的だった。配信直後に48%が中央口へ誘導され、2週間後も84%が継続。

これは単なる混雑緩和ではない。“自分に届いたメッセージ”だからこそ行動が変わったという、極めて人間的な現象だ。
「あなたがいつも使っている駅で、こちらがスムーズです」
──そう言われると人は動く。駅のリアルとデジタルの接点が初めて一体化した瞬間だった。
交通インフラの課題を、デジタルコミュニケーションで解決する。これはJR東日本だからこそ実現できる「リアルに届くデジタル」だ。
「“個客体験”の未来──AI、ID連携、そして駅での広告までがつながる世界へ」
JR東日本の挑戦は、まだ序章にすぎない。今後はID連携・AI活用・広告事業の三方向で進化が加速していく。
まずID連携。グループ会社すべてのLINE公式アカウントがJRE POINT IDとつながれば、JR東日本グループのあらゆるサービスが“ひとりの生活者”の文脈で動き出す。旅行、買い物、通勤、レジャー。その全てが一つのIDに紐づく、まさに“生活インフラのプラットフォーム化”が起きる。
次にAI。現在運用されているAI旅行計画サービスは、ユーザーの滞在日・興味関心・移動エリアから最適な旅プランを自動生成してくれる。LINE上でこれが実現すれば、日常のなかで“旅の気づき”を生む接点になる。
そして広告。駅構内・車両内の広告と、デジタルの接点が統合されようとしている。駅で広告を見た人が実際に改札を通過し、購買に至ったか──これをデータで検証する仕組みを構築中だ。将来的には、サイネージ広告を見た瞬間、その場でデジタルクーポンが届く未来も見えている。
リアルとデジタルを分けない。
生活と移動を分けない。
「人の行動」を構造的に理解し、必要な瞬間にそっと背中を押す。JR東日本が目指すのは“巨大インフラの個客化”だ。そこには、これまでの鉄道会社像とはまったく違う、新しい顧客体験の景色が広がっている。
今日はこの辺で。







