小説の読み方 書き方 は 時代と共に変貌する? 現代 のコンテンツ事情 ヤプリ『UPDATE』
ネットが普及することにより、かつてより、僕らは文章に触れやすくなって 小説の読み方 書き方 にも変化をもたらしている様に思う。ヤプリの『UPDATE』での小説家の平野 啓一郎さんとTakram コンテクストデザイナー渡邉 康太郎さんの対談で、その時代における文章のあり方は、実は未来のコンテンツのあり方とも直結しているような気がして、この話に耳を傾けた。
小説の読み方 書き方 時代によって違う?
1.小説家は新聞の成長とともに
平野さんは小説家であり、元々『日蝕』で第120回芥川賞を受賞して以来『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『マチネの終わりに』、『ある男』などを手がけ、多くの人気作品に恵まれることとなった。
渡邉さんは、東京・ロンドン・NYを拠点にTakramで「コンテクストデザイン」という発想を掲げ活動して、要は使い手が作り手となり、消費者が表現者に変化することを意図した動きを推進している。
二人の話を聞いていて、コンテンツの変容を思った次第で、それらをいかに職業にできるかという話にも関連していると僕は思った。それは時代背景と密接で、実は小説家の登場は新聞の存在が少なからず影響している様である。
大雑把に言えば、新聞がその購読者を増やす過程で、小説の連載に重きが置かれたことで、小説家という職業が確立されたと言って良い。一方で今の時代はどうだろう。逆に、誰もがその発表自体はできるようになっており、変な話、それを職業としてやっていくのだとすれば、面白い表現だが、平野さんは「その作品をどこまで公開するか」が大事になってくると話していて、関心を抱いた。
確かに、note然りそうである。それは作家毎に“稼ぎ方”が違ってくるのである。最初に一気に面白いものが持ってその勢いで最後まで描き抜ける作家もいれば、前置きが長くで最後に一気に急速盛り上がる作家など、タイプには色々あって、公開すべきところと隠すべきところが違うはず。となると、それ毎に課金のスタイルは違ってくる様に思えるわけである。
2.媒体次第で書き方も愛され方も変わる
これは媒体が変わると若干作風にも影響することがわかる。平野さんが以前、漫画誌「モーニング」で小説を連載したときに、週刊誌の大変さを痛感したと語っていて、そのワケは、日刊であれば、毎回、そうそうヤマ場を作れないので割り切って進められるが、週刊となると次の週に読みたいと思わせる様な作りにしなければならないと。
なるほど。ただその一方で、400字詰め原稿用紙で18枚分、それで一まとまりに書くというやり方を吸収できたのはプラスだったと話す。それまでの原稿はもう少し字数を要していた関係で、一まとまりを長く感じていた読者もいたのではないかと振り返り、そこに対してはその作風は読みやすくなったかもしれないと。
つまり、コンテンツは本当に書くプラットフォームによってこうも異なるというわけである。「文章」を職業にするにしても、時代によって変わってくるし、実は受け止める僕らもそれらのコンテンツの消費の仕方も変わってくるに違いない。
その作品のあり方も変化していくこともあるわけで、特に音楽などでは顕著で、TikTokなどを起点に曲がヒットする機会も増えることで、以前より、曲の長さが短いものが浸透するなどの現象が見られている。
ネタバレへの警戒
1.ネタバレも一つの読み方?
そこに時代のカラーがあるというわけなのであって、すごくコンテンツのあり様を語る上では深く本質的な話だなと思った。時代によって、コンテンツは変わるし、おそらくその稼ぎ方すら違うのだ。
もう少し踏み込んで言えば、コンテンツとの触れ合い方も変わっている。特に、ネット上では小説などの「ネタバレ」への警戒感が強いが、平野さんは「むしろ多くの作品を読むに至るまでの間で、真空であることはまずない」と話し、そこまで過敏になる必要はないのではと説く。楽しみ方の多様性を語り、逆にそこに未来のコンテンツのあり方も指し示している様に思う。
「真空ではない」の意図するところは、作品のあらすじを知って、本屋で帯の文章を読んで、時には後書きまで読んで買う人がいるのはこれまでもあったと。現に、平野さんの作品を瀬戸内寂聴さんが後ろから遡って読んでいったら、理解できたエピソードを明かしてくれた。必ずしも作品との出会いの中で、結果が明らかにされていることがNGではないですよねと述べたのだ。
2.ネットは小説などの読み方に新しいルールを与えてくれるかも
この視点は面白いと思った。ネットはある意味、作品の入り口に対してもボーダレスにしたのだと思う。その中にあって、何をどう表現して、人の心を掴むかにルールなどない。いかにして感動させるかであって、今の瀬戸内寂聴さんのように、後ろから読んで、その作品の魅力を感じることだって「あり」なのだ。
かつて、19世紀の小説には「序文」が少なくなかったという。それは最初に予め、〜さんと〜さんは恋仲になるとか、〜さんはどういう人と書いてあることで、中身の文章もその伝え方は変わってくる。今の時代にあって、今の時代、かなり簡潔に答えを求めがちだからこそ、逆にそういう「序文」が求められるかもしれない。
時代と文化は密接である。それを踏まえた中で、この時代にあって何ができるのか。小説然り表現を活かし、また職業にしていくという部分においては、未だ未開拓で発展途上なのではないかと思った次第だ。もしかしたら今までにない切り口も起こりうる。逆にいうと、これがさっきの“稼ぎ方”にも直結していて、だから文化を変えうるかもしれないわけだ。
今日はこの辺で。