劇場アニメ『ルックバック』展 ―― 線が生まれる、その手前で

不完全であること。意味がないように見えること。実は人は、そうしたものにこそ気を取られ、心を奪われる。そんな感覚を、静かに呼び起こされる展示だった。麻布台ヒルズ ギャラリーで開催されている劇場アニメ『ルックバック』展 ― 押山清高「線の感情」は、完成した映画を称えるための展示ではない。
むしろこの展示は、映画が完成する前に、何が起きていたのかという問いとともに、時代の流れの中で、表現するうえで何を大切にすべきなのかを、あらためて立ち止まって考えさせてくれる機会をもたらしている。
完成した映画ではなく、問いが生まれる場所
表現の一つひとつが、どこか人間的に感じられる。それは偶然ではない。作業効率の観点から言えば、アニメーション制作では、原画と動画を分業するのが一般的だ。
動画は原画と原画をつなぐ役割を担い、言葉を選ばずに言えば、動きは「繋ぎ合わせられる」ことになる。その過程で、どうしても失われてしまうものがある。
本作では、原画と動画(中割り)を分けず、同じ人、同じ線で描き切る「原動画」という手法が取り入れられている。
だからだろうか、押山さんの表現には、迷いがない。正確に言えば、迷いが消されていない。繊細な心理描写が途切れることなくつながり、理屈では語り尽くせない情景が、静かに立ち上がってくる。
不完全さに、なぜ人は心を奪われるのか

押山さん自身は、こう展示会に言葉を寄せている。
見てほしいのは、工業製品のような完成度ではなく、人の手仕事による歪で不完全な「息づかい」です。
この言葉に、いたく感銘を受けた。
描くという行為そのものへ、視線を戻す展示
昨今、AIの登場によって、誰でも絵や映像を作れる時代になった。それでもあえて、非効率で、歪で、手作業を重ねることに意味があるとすれば、それは、押山さんが語る「息づかい」が、そうした絵にこそ宿るからなのかもしれない。
ルールに沿って整えられたものではなく、不均衡で、揺らぎを含んだ情景。
それこそが、僕らの周りにある自然なのだと思う。僕は劇場でこの映画を観ていたからか、展示で目にした原画から、その不均衡さがダイレクトに心に響いた。
線の揺れや間の取り方から、動いている場面が自然と想起され、時折、理由もなく、涙が出そうになった。展示のはじめに置かれているのは、雨の中、田んぼ道をスキップする藤野から始まる映像だ。
そして、街中へと飛び出す、藤野と京本。その映像は、どこかパラパラ漫画を思わせ、静止画のようでもあり、スケッチブックに描き込まれた線の集積のようでもある。

不均衡こそ、標準
思えば、映像の原点とは、まさにパラパラ漫画にある。
以前、映像制作に携わる人から、動きの連なりにわずかな違和感をもたらすことで、人は強く引き込まれるのだと聞いたことがある。原画を重んじるからこそ、そこに不均衡が生まれる。その不均衡が、僕らを世界の内側へと引き込み、深い没入をもたらしているのだと思う。
効率のいいわけでもない「原動画」は、大量生産にも向かない。だがそのぶん、最初に引いた線の迷いも、勢いも、ためらいも、途中で誰かに均されることがない。線が、線のまま、時間を生きる。その在り方は、藤本タツキさんが手がけた原作『ルックバック』の世界観とも、不思議なほどよく重なっている。
描くことへの衝動や葛藤を、そのまま抱え込むような物語にとって、この手法が選ばれたことは、観る側にとっても、ひとつの幸運だったのだと思う。
藤野と京本──比較できない二人の距離

真逆の性質を持つ、藤野と京本。
ストーリー作りに長けた藤野は、それこそが漫画表現の核だと信じていた。一方で京本は、物語を組み立てるのは得意ではないが、絵の表現力においては群を抜いた才能を持っている。藤野は、自分が漫画では敵なしだと思っていた。周囲からも、どこかそう扱われてきたし、自分自身も、そう思い込んでいた。
だからこそ、京本の存在は、深く彼女を傷つけ、否定へと向かわせてしまう。
ところが、京本は京本で、藤野に強い憧れを抱いていた。そこにあるのは、優劣ではない。上下でも、理屈でも語れない、ひとつの真実だ。その関係性から生まれる比較や嫉妬は、予定調和の物語では描き切れない。
だからこそ、原動画という手法が効いてくる。迷いも、葛藤も、ためらいも、均されることなく、そのまま映像に滲み出る。その表現と手法が互いを引き立て合ったからこそ、『ルックバック』は、あれほどまでに深く、人の心に残る作品になったのだと思う。
繋ぎ合わせるだけでは、見えないものがある

だからこそ、その後に京本を襲う悲運は、観る者の脳裏に深く焼きつくことになる。そして、藤野が踏み出すその一歩は、京本の境遇と、彼女自身の深い感情の揺らぎを背負ったものとして、強く、観る者を惹きつける。
原画を前にして、あらためてそのことに気づかされた。原作の構成が持つ力は言うまでもないが、それを押山清高の表現が受け止め、引き受けたことで、いっそう胸に迫るものになっていたのだと思う。
だからこそ、原画を見ながら、劇場で観ていたあの瞬間と同じように、再び、涙が出そうになったのだろう。
思えば、映像とは本当に難しいものだ。簡単に表現できるものではなく、小さな表情や情景の積み重ねによって、ようやく形を成す。その魂は、そうした細部にこそ宿る。それらをどう組み立てるかが、何よりも重要なのだ。それを、原動画という手法を通して、この展示で痛いほど思い知らされた。
無駄に見えることを省かず、日常の細部に目を向け、その一つひとつをどうつなぎ合わせれば、ひとつの真実に近づけるのかを考えること。
簡単に映像すら作れてしまう、このAIの時代だからこそ、その姿勢の価値を、強く感じた。この時代において、残すべき価値があり、心に焼き付けるべき作品であり、原画だったと思う。
今日は、この辺で。
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