石垣島プリン本舗に宿る、“リンドバーグの記憶”──火中の栗を拾った男の物語

火中の栗を拾う──そんな無謀とも思える行動を、人はなぜ選ぶのだろうか。けれど、もしもそれが「自分にしかできないことだ」と魂が叫ぶのだとしたら──それはもう、“運命”としか言いようがないのかもしれない。僕が出会ったのは、沖縄・石垣島の地にある一軒のプリン屋。その名は「石垣島プリン本舗」。地元の人々に愛され、観光客の人気も集めていたその店は、ある日、静かに崖っぷちに立たされていた。
経営危機。閉店の瀬戸際。誰もが「ああ、あの店も終わってしまうのか」と思ったその瞬間──手を差し伸べた一人の男がいた。
名もなき“救いの手”──それは、飲食業界とは無縁の男だった
その男の名は、松田智博さん。率いるのは「ちばりよー株式会社」という、全く飲食とは関係のない会社。普通に考えれば、まったく接点のない世界。プリンの製造にも販売にも携わった経験はなかった。
だからこそ、人はこう思うだろう──
「なぜ彼が、そこまでする必要があったのか?」と。
だが、彼にとっては「必要かどうか」ではなかった。「やるべきことなのかどうか」。それだけを、心の奥で問い続けていたのかもしれない。
すべての始まりは“不誠実な経営者”との決別から
真相をたどると、店の危機はある人物によって引き起こされた。それは、もともと店を所有していたオーナーが見込んで任せた経営者──
しかし彼は、平気で約束を破り、誠実さとは真逆の人だった。コロナ禍で観光業が打撃を受け、店の売上が落ち込む中、なんとその経営者は、大切な資金を「使い込んで」しまったのだ。
その結果、「石垣島プリン本舗」は、静かに、しかし確実に崩れていった。支払いは滞り、取引先からの催促が相次ぐ日々。誰もが見て見ぬふりをする中で、店は、崖っぷちに立たされていた。
常識的に考えれば、誰も近づこうとはしない。
ましてやその店に何の縁もゆかりもない者が、救いの手を差し伸べるなど、まずありえないことだった。
異業種からの参入、その理由とは?
ところが、その「ありえないこと」を実行に移した男がいた。それが、松田さんだったのである。食品の知識も、経営再建の実績もない。そんな彼に、「やるべき理由」は何ひとつなかった。
──それでも、彼は思った。「これは、自分がやるべきものだ」と。
誰も手を挙げなかったその店に、松田さんは静かに目を向け、そして、手を差し出した。そこには、理屈では語れない確かな“衝動”があった。
なぜ、そこまでして?その答えは、意外にも「プリンの味そのもの」にあった。石垣島の豊かな自然が育んだ素材を生かし、丁寧に作られたそのプリン。濃厚で、やさしくて、あとを引く味わい。
観光客を虜にし、地元の人々に愛された、あの味が──
彼の心を、動かしたのだ。色々な人の繋がりの中で、彼はこのオーナーに出会い、この店の運営を自分の会社で行う決断をしたのである。
負債の切り離しと、誠実な信頼回復
そして、それをやるにあたって、松田さんが最初に取りかかったのは、“希望”と“負債”の切り分けだった。
「石垣島プリン本舗」という名の看板は救いたい。けれど、その背後には、前経営者が残した重くのしかかる債務があった。
彼はそれを、前社長が経営する法人に留める形とし、自身は「石垣島プリン本舗」という“魂の宿る名前”と、現場のスタッフ、そしてレシピや運営のすべてを、自分の会社で引き継ぐ道を探った。

だが、現実は甘くない。立て直しに着手した直後から、松田さんの会社に対して、取引先からの“催促”の連絡が相次いだ。当然だ。表向きには同じ店舗であり、同じ看板が掲げられている。過去の支払いが、彼の責任と見られても仕方がない。
しかし、松田さんは逃げなかった。ひとつひとつ、電話を取り、頭を下げ、説明を尽くした。
「その負債は、前経営のものであること」
「今後の取引はすべて、私たちの責任で誠実に対応すること」
そして──「どうか、この店を、未来へつなぐ手助けをしてほしい」と。誠意は、言葉を超える。その想いは、少しずつ取引先にも伝わっていった。そして、ここで店が潰れてしまうよりも、この男に託して、少しずつでも回収の道を模索したほうがいいかもしれない。
それは、苦渋の中に見出された、現実的な“希望”。小さな信頼の火種が、少しずつ、この店の未来を照らし始めていた。
音楽を志した青年と、菓子職人の父──
そして、それらの決断は、実は、運命の延長線上にあった。なぜ松田さんは、あれほどまでに強い覚悟で店を引き継ごうとしたのか。
なぜ、無縁に思える“プリン”という存在に、あれほどの執着を見せたのか。
──その答えは、彼自身の“ルーツ”にあった。
松田さんの父は、長崎の地でカステラ一筋に生きた、頑固な菓子職人だった。飾らず、誇らず、ただ菓子と向き合い続ける父の背中を、松田さんは少年時代、黙って見ていた。
しかし、彼が選んだのは別の道だった。若き日の情熱は音楽に向かい、東京へ。その夢の先にあったのが──歌手「リンドバーグ」の見習いとしての日々。光を夢見て走った時間は、眩しくもあり、厳しくもあった。やがて夢は途切れ、現実の中で新たな道を選ぶことになる。
訪問販売で誰にも負けない成績を叩き出し、通信事業者の営業代行を担う会社を興すまでに成長。成功者と呼ばれる人生を歩む一方で、彼の胸の奥には、ずっと残り続けていた“何か”があった。
──父の作る、あの甘くて深い、ひと切れのカステラ。
──音楽という夢に燃えた、あの鮮やかな青春の残像。
そして今、石垣島で出会ったこのプリンの味が、すべてを静かにつないだ。
「これは、俺にしかできない再生かもしれない。」
そう感じた瞬間、彼の中の何かが、音を立てて動き出したのだ。
再び、音が鳴りはじめる──リンドバーグとの“縁”が動き出した瞬間
そうやって、松田さんは、自らの会社「ちばりよー」を立ち上げ、この「石垣島プリン本舗」の経営権を、負債を除いた形で正式に譲り受けることになったのだ。
冒頭話した通り。まさに、“火中の栗を拾う”という言葉が、これ以上ないほど似合う決断だった。けれど、彼にとってそれは、「リスク」ではなく「宿命」に近いものだったのかもしれない。それは、彼自身の環境を思えばこそ、実感できることだ。
このプリンとともに歩む人生こそが、自分にとっての“次の章”なのだと──
松田さんのその口調から、僕にはそんな静かな確信が感じられた。実は、僕と松田さんが出会ったのは、偶然のようでいて、どこか必然にも思える縁からだった。
そのきっかけを作ってくれたのが、デビルロボッツのキタイシンイチロウさん。
かつて音楽ユニット「リンドバーグ」のジャケットデザインを手がけた人物でもある。そう──あの若き日、夢を追って松田さんが見習いとして参加していた、まさにその「リンドバーグ」と、キタイさんは深く関わっていたのだ。
そして、僕も旧知の仲であるキタイさんから紹介されて、松田さんとの出会いにいたる。
デザインに託された想い──三色の風景
松田さんがキタイさんのもとを訪ねたのは、昨年の夏のことだった。経営の引き継ぎを終えた今──ただ店を再開させるだけではなく、「想いが伝わるかたち」で、この場所を生まれ変わらせたい。
そう願った松田さんは、かつての縁をたどり、デザインのすべてをキタイさんに託した。その申し出に、キタイさんは迷いなく応えた。二つ返事で引き受け、店のロゴからパッケージ、空間デザインに至るまで、まさに“すべて”を手がけてくれたのだ。
完成したデザインには、三つの色が優しく溶け合っていた。「青い空」「エメラルドグリーンの海」──そしてその間に広がる「白い砂浜」。石垣島を象徴する、美しくて、少し切ない、あの風景。それは、プリンという小さな箱の中に、島の記憶と想いをそっと詰め込んだような、静かなメッセージだった。

そして、松田さんが語った言葉が、何よりも胸に残っている。
「自分にとって、リンドバーグとの出会いはかけがえのないものなんです。
だからこそ、そこで出会った信頼すべき人たちと一緒に、この新しい挑戦を形にしたかった。」
夢を追い、夢に破れ、そしてまた、信頼でつながった縁に支えられて、もう一度“始める”。キタイさんにデザインを託すという選択も──それは偶然ではなく、人生の流れの中で自然に導かれた、“必然”だったのだ。
そして、その表現の先に、この文章で、僕が関われていることも、何かのご縁だろう。
プリンでしか繋がらない、人生の交差点
僕はそんな松田さんと、キタイさんの紹介で出会い、サシで酒を酌み交わした。そこで聞いた話の数々に、心が揺さぶられた。彼の人生は、まるでバラバラなピースのように見えていた。けれど──ある一点で、すべてが“プリン”を軸に交差し始めていたのだ。
先ほど、書いた通り、リンドバーグの付き人として、夢の最前線に身を置いていたあの頃──眩しさと裏腹に、現実の壁は高く、彼はその世界を離れた。
それでも、ただ夢に敗れた青年では終わらなかった。彼が飛び込んだのは、まさに「地を這う」ような世界──訪問販売だった。一日300件、インターホンを押し続けても、結果はたった“一件”。それでも彼は、そこで営業成績で、頂点に立った。売れるために嘘を並べ立てるのかと思いきや、彼は違った。
「300件に1件、自分が扱っているサービスが“本当にお客さんのためになる”瞬間があるんです」
そう語る目は、誠実だった。どんな仕事であれ、人道に恥じぬこと。そして、心から人の役に立てたと感じられるかどうか──それが続ける理由となり、彼の信念となっていった。
プリンがつないだ“父との会話”と、未来への和音
そして、彼は営業代行の仕事で、会社を持つことになった。そして、先ほどのオーナーとの出会いにつながっていくのだ。
リンドバーグとの出会いを再び意味づけることなど、きっとできなかった。でも、“プリン”ならばできる──松田さんは、そう言って目を輝かせた。かつて夢を追った音楽と、今立っている場所が、ふたたびつながっていく。
しかもそれは、音楽だけではない。
遠く離れたと思っていた、父との縁までも──
長崎で菓子を作り続けた父は、昨年ついに店をたたんだ。だが今、プリンという菓子を通じて、ようやく松田さんは「同じ言語」で父と語り合うことができるようになったという。

夢に破れた青年は、現実の中で、人と人との“甘い記憶”を紡ぐ存在になった。

その交差点の中心にあるのが、プリンだった。
プリンが導いた、人生の再起──すべての出会いに、意味がある
あの日、偶然のように出会った一つのプリン。けれど、それは決して“たまたま”ではなかったのだと思う。
この出会いこそ、松田さんの人生にとって必要な“ひとさじ”だった。夢を追った日々も、地道な営業の毎日も、すべてが一本の線になって、このプリンへと導かれていたかのようだった。
人生に、無駄な出会いなどない。意味のない寄り道も、苦い失敗も、無言の別れも──すべてが、何年も先の“何か”を形づくるためにあるのだと、信じたくなる。
このプリンにとって、松田さんは“運命”だった。そして、松田さんにとっても、このプリンは“必要”だった。
お互いの軌道が交差したとき、それは単なるビジネスや再建ではなく、ひとつの“物語”として静かに動き出した。
今日も、この店のどこかで──
リンドバーグの奏でる、あの優しくて、少し切ないメロディが流れている。
それは、過去と未来をつなぐ音。
そして、これから誰かの“記憶になる味”でもある。
今日はこの辺で。