AI時代に残る“非合理”という価値──行動経済学が示す、人間理解という最後の差別化

「これからは、行動経済学が重要になる」シナブル代表取締役 小林裕紀さんとの対話の中で、ふとした一言に引っかかった。AIが進化し、あらゆる意思決定が効率化されていく時代に、なぜ“非合理”を扱う学問が重要になるのか。一見すると逆説的にも思えるこの指摘は、しかし、話を深く聞くほどに、むしろ本質を突いていると感じた。そう考えると、AIは合理の極致である。
だが、僕ら人間は、必ずしも合理的には動かない。このズレをどう捉えるか。そこにこそ、これからのビジネス、そして人間社会のあり方を読み解く鍵があるのではないか。その対話を起点に、AIと人間の関係性を改めて見つめ直していきたい。
「合理的でない行動」が、なぜ重要になるのか
小林さんが提示した具体例は、極めてシンプルでありながら示唆に富んでいる。小林さんの会社、シナブルはマーケティングオートメーションのサービスを手掛けていて、顧客ごとに“最適なタイミングと内容”で関係性を作り出す。
そこに関連して、話してくれたのが「クーポン」の話である。
一般的に考えれば、クーポンは“お得”であり、提示すれば利用される確率は高まる。だが現実には、明確に「使う人」と「使わない人」に分かれるという。しかも、使わない人は、どれだけお得であっても使わない。それどころか、提示されること自体を煩わしく感じ、むしろマイナスに働くことすらある。
この現象は、合理的な意思決定モデルでは説明がつかない。AIが得意とするのは、過去のデータから「最適解」を導き出すことだ。
しかし、このクーポンのような振る舞いは、その最適解から外れる。つまり、AIにとっては「ノイズ」であり、扱いづらい領域である。
だが、ここにこそ本質がある。人間は、常に合理的に動くわけではない。むしろ、面倒だからやらない、なんとなく嫌だから避ける、という曖昧で非合理な判断を日常的に繰り返している。この“揺らぎ”こそが、人間らしさの本質であり、同時にビジネスにおける最大の変数でもある。
AIが普及すればするほど、合理的な最適化は誰でもできるようになる。だからこそ、その外側にある「非合理の理解」が、逆に差別化の源泉になる。行動経済学が重要になるという小林さんの指摘は、まさにこの構造を言い当てている。
AIが壊してしまう「内側の世界観」
この話を聞きながら、僕は別の場面での会話を思い出していた。それは、とあるデザイナーとのやり取りである。彼は、自分たちが長い時間をかけて築き上げてきたブランドの世界観が、AIによって簡単に壊されてしまうことに戸惑いを感じていた。
例えば、営業担当がAIで生成したデザインを「これでいきましょう」と持ってくる。しかし、そのデザインは一見整っているようで、実際にはブランドの文脈から外れている。
なぜなら、それは“外側の平均値”から生成されたものであり、そのブランドが持つ内側の論理や歴史、積み重ねを反映していないからだ。
ここで重要なのは、企業やブランドには、それぞれ固有の「内側のルール」が存在するという点である。それは言語化されていないことも多く、関係者の間で共有される暗黙知として機能している。そして、この内側の世界観こそが、外部からは再現できない価値を生み出している。
AIは、広く集めた情報をもとに最適化を行う。そのため、どうしても“外側の論理”に引っ張られる。一方で、人間の関係性の中で育まれる世界観は、その外側とは一致しないことが多い。このズレを無視してAIを前面に出すと、結果として違和感のあるものが出来上がる。
つまり、AIはあくまで裏側の補助装置であり、前面に立つべきものではない。この前提を見誤ると、価値そのものが崩れてしまう。
AIは「再現性の外側」を扱えない
ここまでの話を整理すると、一つの結論が見えてくる。それは、AIは「再現できるもの」に強く、「再現できないもの」に弱いということである。
クーポンに対する反応もそうだし、ブランドの世界観もそうだ。これらはすべて、個別の文脈や関係性の中で成立している。そのため、同じ条件を与えたとしても、同じ結果にはならない。つまり、再現性が低い。
AIは、過去のデータをもとに未来を予測する。そのため、再現性のある領域では圧倒的な力を発揮する。しかし、再現性のない領域に踏み込むと、その精度は途端に落ちる。
にもかかわらず、AIの出力は一見それらしく見えるため、人はそれを過信してしまう。
この構造は、非常に危険である。
なぜなら、「正しそうに見える間違い」が量産されるからだ。しかも、AIのスピードによって、それが一気に広がってしまう。
だからこそ、人間側には別の役割が求められる。それは、「これは違う」と判断する力である。違和感を察知し、それを言語化し、修正する。このプロセスを担うのは、依然として人間でしかない。
“バグ”を前提にした思考が、AI時代の前提になる
僕はこの構造を、コンピューターにおける“バグ”に近いものだと捉えている。
通常、人はバグが起きないことを前提にシステムを考えがちだ。しかし実際には、どんなシステムにもバグは発生する。だからこそ、バグを前提に設計し、それに対処する仕組みを組み込む必要がある。
AIも同じである。どれだけ精度が上がったとしても、必ずズレは生じる。そのズレを「例外」として扱うのではなく、「前提」として受け入れる。この意識の転換が、これからの時代には不可欠になる。
AIは意思決定を補助するが、その前提となる設計や方向性は人間が決める必要がある。どのデータを見るのか、どの仮説を立てるのか、どこに価値を置くのか。これらはすべて、人間側の責任である。
そして、この判断の精度を高めるために必要なのが、行動経済学的な視点、つまり「人はどう動くのか」を理解する力なのである。
広告は消えない。“気づかれない形”で
クーポンの話を聞きながら、もう一つ考えさせられたことがある。
それは、広告のあり方そのものが、これから大きく変わっていくのではないかという点だ。一般的に、AIが進化すれば、無駄な広告は排除され、より最適な情報だけが届けられるようになる、と考えられがちである。
だが、小林さんの見立てはむしろ逆だった。広告はなくならない。むしろ、形を変えて入り込んでくるという。
その象徴的なイメージが、AIエージェントによる提案である。例えば、日常の中で「そろそろゴルフに行こうかな」と思った瞬間に、AIが「ボールが少なくなっていますよ」「この商品が良いですよ」と自然に差し込んでくる。
これは一見すると、ユーザーに寄り添った“便利な提案”である。しかし、その裏側にある構造を見れば、それは紛れもなく広告である。
つまり、これからの広告は「ここに広告がありますよ」と明示されるものではなく、「必要な情報ですよ」という顔をして、意思決定の中に溶け込んでくる。
だから、必要と感じるものは何かが大事
ここで重要なのは、クーポンの話と同じ構造が存在しているという点だ。
人は、自分にとって必要だと感じるものは受け入れるが、そうでないものは拒絶する。だからこそ広告は、これまで“目立つ形”で存在しながらも、どこかで嫌われる存在でもあった。だが、AIがその文脈を読み取り、「必要そうなタイミング」で差し込んでくるようになると、その境界線は曖昧になる。広告なのか、単なる提案なのか、その区別がつかなくなるのである。
さらに厄介なのは、その提案が本当に“最適”なのかどうかが、見えにくくなる点だ。理想的には、AIはユーザーにとって最も価値のある選択肢を提示するはずである。しかし現実には、そこにビジネスの論理が介在する。
つまり、どの情報が優先されるのかは、純粋な最適化だけでは決まらない可能性がある。結果として、ユーザーは「自分で選んでいるつもりで、実は誘導されている」という状態に置かれることになる。
この構造は、クーポン以上に“見えづらい非合理”を生む。
なぜなら、クーポンはまだ「提示されている」と認識できるが、AIの提案はそれ自体が自然な流れの中に組み込まれているからだ。だからこそ、これからの時代においては、「これは本当に自分の意思なのか」という問いが、より重要になってくるのではないかと思う。 広告が消えるのではない。むしろ、人の意思決定の奥深くにまで入り込んでくる。その変化を前提に、私たちはAIと向き合わなければならないのだと思う。
AIの先に残るのは、「人間らしさ」である
最終的にこの対話から見えてきたのは、極めてシンプルな結論だった。それは、「AIが進化するほど、人間が問われる」ということである。
AIは、専門性の壁を越え、あらゆる領域を横断する力を持っている。デザインも、文章も、プログラミングも、ある程度のレベルまでは誰でもできるようになる。だが、その先に残るのは、「何を作るのか」という問いであり、それは人間の内側からしか生まれない。
経験、感情、直感、そして関係性。これらは、データとして扱うことはできても、完全に再現することはできない。だからこそ価値がある。
小林さんが語った「行動経済学を学ぶべきだ」という言葉は、単なる知識の話ではない。それは、人間を理解する努力を放棄するな、というメッセージでもある。
AIを使いこなすということは、AIに任せることではない。むしろ、その逆である。人間が何を大切にするのかを明確にし、その上でAIをどう使うのかを考えること。その順序を見失わないこと。
だからこそ、行動経済学という視点は重要になる。合理では説明できない人間の揺らぎを理解しようとすること。
それこそが、AI時代において、最後に残る差別化になるのではないかと、僕は感じている。
今日はこの辺で。







