現場が動き、経営が決める──損保ジャパン・日本テレビ・メルカリが語る「AIエージェント導入のリアル」

AIは“便利なツール”で終わるのか、それとも“事業を変える仕組み”になれるのか。Google Cloudの下田氏がモデレートしたパネルに、損保ジャパンの中島氏、日本テレビの辻氏、メルカリの梅澤氏が登壇。金融・放送・プラットフォームという異なる土俵で、AIエージェントをどう実装し、どう続け、どう成果につなげたのか。現場の汗と経営の意思決定、その間をつなぐ“ミドル”の役割まで、実務の視点で語られた。
1|導入の出発点は「自分ごと化」──モデレーターからの宿題
セッション冒頭、下田氏は3社の多様性を示しながら“自社に重ねて学びを持ち帰ってほしい”と呼びかけた。テーマは2段構え。「①業務に適用するまでのジャーニー」「②会社としての取り組み」。単なるツール導入ではなく、業務設計と組織設計をどう変えたのかが問われる。
2|損保ジャパン:4階建ての実装と“課題起点”の鉄則
最初に登壇したのは、損保ジャパンの中島正朝さん(チーフデジタルオフィサー/リテールビジネスCOO)。長年ネット販売型の商品開発に携わり、2016年から東京とシリコンバレーのデジタルラボで変革を牽引してきたという。
中島さんが語る設計は単純だが強い。「操縦席にはビジネスユニットが座り、デジタル部門は伴走する」。生成AIは“新しいからやる”では続かない。だからこそ「課題ドリブン」で、消えない大きな課題に当て続ける。
たとえば商品問い合わせが膨大な「教えて損保」だ。保険は文字と書類の世界。社内情報と生成AIは相性がいい。介護領域の「教えて介護」では排泄ケアのマニュアルも読み込ませる。
AI統合基盤で業務全体を再設計する
いまはVertex AI Platformを中核に、保険金サービスやアンダーライティング、コールセンターまでプロセスを端から端まで組み直す取り組みが進む。※Vertex AI Platformとは、Google Cloudが提供するAI開発の統合基盤で、企業がAIモデルを作り、学習させ、業務に組み込むまでを一気通貫で行える仕組みだ。
中島さんが言う「Vertex AI Platformを中心に保険金サービスやコールセンターを再設計している」というのは、保険金処理や顧客応対など業務フロー全体をこのVertex AI上でAI化しているということ。顧客からの問い合わせ内容を解析し、必要なデータを自動で引き出し、回答やレポートを生成して担当部署に渡す。
こうした一連の流れを、バラバラなシステムではなく、Vertex AIを軸にエンドトゥーエンドで設計し直しているわけだ。
現場で進む“AI活用の実例”
さらに、事故車両の損傷画像と修理見積もりをAIで解析して金額の妥当性をチェックするなど、画像AIの活用も進んでいる。2022年時点で月3.5万件をAIがチェックし、人による精査は必要な案件だけに絞り込む仕組みを構築した。2025年には営業店・本社向けに生成AIを使った照会回答支援システム「おしそんLLM」を導入し、約4割の業務時間削減効果を実証している。
“民主化”が文化を変える
一方で“民主化”も本格化している。社内の「損保ジャパンAIチャット」上で現場が小さなアプリを作り、Notebook LMやAgent Spaceも取り入れながら全職員で使う流れが生まれている。1万1,000人が使う環境では、現場の勉強会動画が社内再生1位になるなど、“ヒーロー”が自然に立ち上がっている。
印象的だったのは、評価軸の話だ。
「何分が何分になった、だけだと経営にヒットしない」。
人件費を減らすのか、収益や原価構造にどう効いたのか。物差しを変えない限り、点のツール導入で終わる。
そしてもう一つ、「本社役員全員にまずNotebook LMを使ってもらう」。
便利で終わらせず、「これを中心にビジネスモデルをどう変えるか」を議論する。最上位には「AIがお客様になる時代」という構想も置く。ただしここは“議論・構想段階”にとどめ、飛躍して語らない。その慎重さが全体のトーンを決めていた。
3|日本テレビ:意思決定レイヤーにAIを入れる
次にマイクを握ったのは、日本テレビの辻理奈さん(経営戦略局 経営戦略部)。もともとAIやデータのエンジニアで、いまは経営側と現場のあいだに立ち、戦略から実装までをつなぐ役割を担っている。
彼女の言葉は明快だ。
「AIはあくまで手段。何を課題と設定して、何を解決するかを常に考えることが大切です」
コンテンツ制作の“心臓部”にAIを入れる
2025年度に発表された中期経営計画には、コンテンツ企画制作というテレビ局のコア事業にAIエージェントを実装する方針が明記されている。単なる効率化ではなく、意思決定のレイヤーにAIを組み込み、ビジネスのトップライン――つまり売上そのものを伸ばすことを目指している。
その象徴が朝の情報番組「ZIP!」だ。毎朝放送があり、毎日新しい企画を考えなければならない。ディレクターは平均して7案の企画書をつくるのに約8時間かかっていた。
辻さんたちはこの“創造の負荷”を減らすため、総合演出とともに企画支援エージェントを開発した。このエージェントは、過去の会議から「なぜその企画が選ばれたのか」という判断軸を抽出し、番組のコンセプト「生活に寄り添う」に沿った企画案を自動で提案してくれる。
AIがただアイデアを出すのではなく、番組が持つ“価値観”を理解したうえで案を生み出す。試験運用の1か月で、すでに4案が実際にオンエアに採用された。
もう一つの事例が番組戦略支援エージェントだ。「この番組をゴールデンに移すか」「深夜帯に残すか」などの判断を支える仕組みである。視聴率などの定量データに、日テレが70年にわたり蓄積してきたノウハウを組み合わせ、
複数の番組を多角的・客観的に分析できるようになった。
人的リソースの制約で“一部番組しか分析できない”という課題を、AIが埋めている。
“現場と一緒に作る”という覚悟
辻さんが大切にしているのは、AIを“導入してもらう”のではなく、現場と一緒に作ることだ。
「自分の悩みを解決しようとしてくれる人に、嫌悪感を抱く人はいない」
だから「ZIP!」開発の際は、1か月間、毎日企画会議に出席した。現場の温度を知り、どこに負荷があるのかを肌で感じる。そして要件定義に時間をかける代わりに、Geminiを活用した“Vibe Coding”で試作品を最速で作る。
“Vibe Coding”が生んだ新しい開発スタイル
ちなみに、辻さんが語った“Vibe Coding”とは、人とAIが会話しながら試作品を作る新しい開発手法のことだ。 従来のように「要件定義→設計→実装」という段階を踏むのではなく、「こんな仕組みがほしい」と話しかけるとAIがその場でコードやUIを提案してくれる。
いわば、要件定義と実装が融合した“会話型開発”であり、チームの“バイブス(雰囲気)”を共有しながら形を作っていくスタイルだ。
エンジニアではないビジネスサイドの人が「自分で作った」と思えることが、現場のモチベーションを大きく変える。
“舵取り役”が生むスピード
さらに、経営判断のスピードを上げるため、副社長をトップに据えた少人数の幹部会議(ステアリングコミッティー)を立ち上げ、月次でレポートを行っている。
この“舵取り役”の場があることで、現場の熱を経営判断までワンストロークで届けられる。
「スピードが価値。現場の熱を経営判断までワンストロークで届けることが大事だと思っています」
現場の熱と経営の判断が地続きになることで、AIエージェントは“技術のプロジェクト”から“組織の文化”へと変わっていく。
テレビ局という創造の現場にAIを入れる――その挑戦には、技術よりも人への理解が深く関わっている。
4|メルカリ:100人のタスクフォースがつくる“AI文化”
トップの号令から始まった100人プロジェクト
最後に登壇したのは、メルカリの梅澤慶介さん(Director of Engineering, AI/ML)。2025年7月に立ち上げたAIタスクフォースは、わずか1か月前の経営会議から生まれた。
当初は一部領域で小さく始める想定だったが、グループCEOの「全社でやる」という号令で一気に拡大。「トップの押しだけでは進まない。下からの呼応があってこそ動く」と梅澤さんは振り返る。
だから自らを“ミドルマネジメント”と位置づけ、上と下をつなぐ役割を担った。
ミドルが熱量を支えるしくみ
彼が最初に手をつけたのは、勢いを保ちながら全体を底上げする仕組みづくりだった。三つの領域を同時に立ち上げ、エンジニアのいない部門にも即座に人を送り、各領域を代表するプロジェクトマネージャーを選出してペアを組ませる。
横断的な連携とルールメイキングによって、熱量を組織の仕組みへと変えていった。
「これはお祭りなんです」と梅澤さんは笑う。
毎月“発表できるもの”を作るというルールを掲げ、失敗を恐れず挑戦する文化を醸成した。受託型に慣れたエンジニアたちが、混沌の中で考え、作り、試す。失敗を共有し合い、そこから学ぶ。その過程こそが価値になる。
「失敗しても経験として残る。その空気をつくることが、前に進む力になるんです」
「Socrates」が変えた働き方
こうした動きの象徴が、社内エージェント「Socrates(ソクラテス)」だ。これまでアナリストに依頼していたデータ分析を、企画職やPMが自然言語で直接たずねるだけで完結できる。
「今朝の売上は?」「今月の決算は?」と問いかければ、AIが可視化・分析結果を返してくれる。
分析が専門家の領域から、全社員の手に渡った。
この変化を、梅澤さんは「役割を超えて付加価値の高い仕事に転換する」ことだと語る。AIは作業を減らすためではなく、人がより創造的な領域に時間を割くために存在する。
100人のタスクフォースは、技術導入のプロジェクトではなく、“AIが文化になるまで”を見届ける組織になりつつある。
5|共通項:トップ・ミドル・現場が「一本の線」でつながる
討議を通じて浮かび上がった共通点は、業界が違っても驚くほど似ている。 各社に共通していたのは次の六つの視点だ。
「課題ドリブン」「現場の当事者化」「ミドルの設計力」「意思決定の回路」「評価軸の転換」「民主化の基盤」――。 それぞれの実践が、AIを“ツール”から“文化”へと変えていく。
- 課題ドリブン:PoC映えより“消えない課題”。大きい課題ほど成果も大きい。
- 現場の当事者化:プロトタイプを速く見せ、現場の言葉で作り込む。現場内ヒーローを可視化。
- ミドルの設計力:熱を保ち、規模化のルールを作る。横断PM/人員配置/優先度管理。
- 意思決定の回路:経営直結の場を定例化し、スピード=価値を組織に埋め込む。
- 評価軸の転換:“何分短縮”ではなく、人員・原価・収益に効いたかで測る。
- 民主化の基盤:Notebook LM/Agent Space などで“作る力”を現場へ開放。
6|そして次の一手──“ツール導入”から“組織の再設計”へ
3社の話は、RPA時代の“部分最適の効率化”とは明確に違う。AIエージェントの本質は、業務を端から端までつなぎ直し、意思決定に届くスピードを作ること。そのために、現場・ミドル・経営が一本の線でつながる設計を早期に用意する。ツールは“あとから追随”でいい。
1990年代のインターネット勃興に似た「空気」を、今こそ経営が体感し、物差しを変える時だ。
今日はこの辺で。







