僕は、ジュエリーで少々、ヒットを掴む事ができました。いよいよ独立したいという気持ちが強くなっていたんです。ただ、そこで挑んだ初めての独立では、本当に、不甲斐ない結果を導き出すことになります。そして、僕は日雇いバイトをするまでして、必死に生きる日々が待っていようとは思いも寄らない事でした。
- 1)記者編:ダメなりに見つけた僕なりの活路
- 2)製造編:売れなかった反省と果たしたリベンジ
- 3)起業編:どん底でも腐らず、編集で再起(←イマココ)
自分で美容商材、洗顔ジェルに挑戦するも挫折
1.健食にも着手しそこでの独特なアイデア
僕は以前、矢野未希子さんとのジュエリーのディレクションをさせてもらい、ものづくりに関しての知見は溜まっていました。だから、それを活かすべくアイフリークで当時、関わっていた美容商材に関しても着手することになります。
着目したのはダイエットサプリ。その多くは、大きなボトルに入っていることが多かったのです。でも、それでは女性は持ち歩けないはず。そう思って、敢えてそれをフリスクケースに入れて売り出したのです。それが「ポケス」です。
「これであれば、焼き肉を食べる前にサクッと飲める」と。「必要に応じて持ち歩ける」というコンセプトは受け入れられました。ネットプライスなどでは、週間ランキングでトップを取るなど、ヒットしたのです。その後、自分の人生にはなかった営業を自ら、それらの商品を持って行い、自分としての活動の幅を広げていたのでした。
2.僕の暗黒時代
その時に、実は、手がけた洗顔ジェルのアイデアがありました。それが会社での稟議が通らなかったことから、旧知の先輩に、その話をしたのです。
「おお、いいじゃないか。それで俺たちで会社をやろう」その方から思いがけず独立の提案をされて、僕はその当時の会社を辞めました。お互い、お金を出し合い、二人で会社を経営しようとしますが、この商材が当たりません。
美容系の商材には、サロン商材と市販で売られるものがあります。実際、サロン商品は、サロンに勤める美容師がお店で施術を行いなから、薦めて購入を促すわけです。すると、それ相応の品質を盛り込み、金額も高いものになり、原価率が高いのです。
それに対して、市販のものは価格に対してシビアな傾向があり、原価率が低い。つまり、原価率を低くしないといけないのに、サロン商品を手掛ける工場に依頼をしてしまったために、結果、どちらつかずの商材になってしまったのです。
2.美容の不勉強が招いた人生最大の危機
ここからは転がり落ちるように地獄です。ネットショップに提案しても売れません。仕方なく、温浴施設に自ら電話をして、実演販売の許可を取って、売り歩く日々。キャリーバッグを引いて、現場に向かい、机を借りて、その上にテーブルクロスを敷いて、販売。駆け寄る年配のお客様の手で、その洗顔の実感を伝えて購入してもらうのです。
売れなくて、途方に暮れたことは、数しれません。ただ、その時に購入してくれたお客様の3,000円のお札の重さとありがたさは今でも忘れられません。時に、下の写真の通り、買ってくれたお客様からお弁当の差し入れをもらったり、人の優しさが身に染みた時期でもありました。
とにかくお金がない。僕はこの洗顔ジェルを売る合間の時間を、日雇いバイトをして、日銭を稼ぐこともしていました。それだけ必死だったんです。
余談ですが、日雇バイト時代の現場監督の人とは今でも会います。当時、単なるバイトですから圧倒的に向こうのが上の立場。雲の上の人です。なのに、最近の僕をみて、お酒を片手に「石郷くんは凄い、尊敬するよ」って声をかけてくれるんです。
3.ボロボロになって落ち着いたところで響いた父の言葉
ただ、その当時は本当に苦しかった。だから、もう独立はしない。そう心に決めて、その後、ビューティゲートという美容系の問屋に助けてもらい(拾ってもらいと言ったほうが正しい)、営業を軸に、仕事をさせてもらいます。
そうしながらも、そこで1年ほど経ったある時、とある言葉が耳に残ります。父の「(お前は)好きなことを仕事にしているんだよなぁ」という言葉。讃えるようにそう言われました。
そこで思ったんです。「本当は物書きこそが、自分のやりたいことなのではないか」と。人生は一度きり。思い切って編集者としての道を再度、模索することになるのです。
苦しい経験もありながら、EC業界メディアの編集者に
1.ウェブメディアの成長に打ち込む日々
そこで出会ったのはEC(ネット通販)業界の専門メディア「ECのミカタ」。そこで再び、編集者となりました。記者としてはブランクもありますし、少し前の黒歴史で分かる通り、手痛い経験もあります。初心に帰るべく、肩書きにも拘らず、いち記者として入社し、奮起しました。
それでも、その功績は讃えられ、あれよあれよと編集長に就任しました。スタッフに恵まれたのだと思うから、編集部のメンバーには感謝しています。その時の写真ですがサプライズで祝ってくれて、本当に嬉しかったです。
2.編集長としてより媒体価値を上げる為に
ただ常に果敢に挑む姿勢は忘れませんでした。自ら読者である店舗さんにも会いに行ったことで、すごく店舗さんに良くしていただけました。そこで得た一つ一つの言葉が僕にとって大きな気づきになっています。
気づけば編集長として約5年近く務め上げました。特に、創業者の小林亮介さんには個人的には創造する力など、リスペクトしていますし、本当に感謝しています。
様々なジャンルに飛び込んだのは個性になった
1.人の心を動かす文章を
そして、自分らしい生き方をと考え、株式会社team145という会社を立ち上げるに至ります。ここまで本当に色々やってきました。そして自分が一番、発揮できるのは文章を書く事。だから、メディアだと。そこで思いついたのが、コミュニティという発想です。
コミュニティに入ってもらい、関係性を深めるほど、真に伝わる記事が書けるはずだということ。それを自分のメディアでは書こう。そういう文章こそが人の心を動かすだろうと。
加えて、僕は「ラブサイン」で取り組んだようなことをこの手でもう一度、やってみたい。つまり、そのメディアを起点にコミュニティを作り、そのメンバーと一緒に商品を作って、販売するということです。
だから、僕のやっていることは「メディアです!」と言い切れないところに、価値があるようにも感じています。やりたいのは、従来の枠組みにとらわれない、自分らしさの表現であり、そこで生きていくということです。
2.人に支えられてきたから恩返ししないといけない
最後に、僕は人に恵まれていて、だからやってこれた。だから、その恩返しでもあります。
実は起業当初、道なき道で、うまくいかないことも沢山ありましたが、やっぱり人あっての人生。ある時、僕の家に荷物が届いたんです。
その荷物、なんだと思いますか?開いて驚きました。その中身は花束だったのです。「え?」と思って、花束に添えられていたメッセージを見て、本当に泣けてきたんです。
この度の会社設立、心からお祝い申し上げます。日本中を元気にするような、石郷さんらしいメディアを楽しみにしています。team145の一員 楽天株式会社 広報部一同。
4.メディアの立ち上げに至る
こんな応援してくれている人がいるなら、俺はやるんだ!と。まずは、仁義をきって、前のメディアの創業者の小林さんに報告をしました。前職のメディア「ECのミカタ」は子供のようなもの。でも、僕は僕なりの全く違う世界を求めるんだと。そして、このメディアが船出をしたのです。
のぼり下りのある人生です。でも、ここから登り坂を駆け上がっていきます。懸命に生きているからか、誰かしら救ってくれて、いつもまわりに人がいる。だから「人を第一に」素敵に世の中を変えたい。
※最後に、先日、OZIEの店長にして、柳田織物 代表取締役 柳田 敏正さんからお誘いがあって、こんな動画で想いを語っていますので、よろしければ、ご覧ください。
こんな僕ですが、どうか、宜しくお願いします。
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