AI時代だからこそ、人は「何をしないか」を決めなければならない——楠木建氏が語った、戦略とAIの本質
生成AIの登場によって、「AIをどう使うか」という議論は一気に広がりました。文章を書く。資料を作る。調べものをする。アイデアを出す。たしかにAIは、私たちの仕事を速く、便利にしてくれます。しかし、Bizcrew EXPO2026で一橋ビジネススクール特任教授の楠木建氏の話が本質的だったのは、AIを単なる便利な道具として語らなかった点にあります。
楠木氏がまず示したのは、「ベター」と「戦略」は違うということでした。多くの企業は、より良いもの、より速いもの、より安いものを追いかけます。それ自体は悪いことではありません。しかし、それは競争相手も同じように追いかけるものです。
だからこそ、本当に問われるのは、何を足すかではありません。何を削るか。何をしないか。そこにこそ、戦略の本質があるというのです。
AI時代の企業経営を考えるうえで、この視点は非常に重要です。AIが出す答えは速く、便利で、広く使えるものです。だからこそ、それを使うだけでは差別化にはなりません。むしろ、皆が同じように使うほど、企業は平均へ近づいていきます。
では、人間は何を考えるべきなのか。楠木氏の講演は、その問いに対する極めて本質的な示唆に満ちていました。
「ベター」は競争を生むが、戦略にはならない
① 「違い」には二種類ある
楠木氏は、戦略を考えるうえで、まず「違い」には二種類あると説明します。
一つは、「どちらが上か」という違いです。品質がより高い。納期がより早い。価格がより安い。保証期間がより長い。人間で言えば、足が速い、背が高い、力が強いといった違いです。そこには物差しがあります。A社よりB社の方が優れている、と比較できる違いです。
もう一つは、「そもそも違う」という違いです。物差しがない違いです。男性と女性、出身地の違いのように、どちらが上かではなく、違うものとして存在している違いです。
楠木氏が強調したのは、戦略において大事なのは後者だということでした。競争相手より「ベター」であることは、必ずしも戦略ではありません。なぜなら、ベターなものは、他社にも見えるからです。見えた瞬間、真似されます。
② ベター競争には終わりがある
講演では、航空会社のビジネスクラスのリクライニングシートの例が出てきました。かつてリクライニング角度が135度だった時代に、ある会社が155度倒れるシートを導入しました。お客さんにとっては快適ですから、当然評価されます。すると、他社は160度にする。やがて180度のフルフラットシートが登場する。
これは典型的な「ベター」の競争です。確かに一時的には違いになります。しかし、その違いの賞味期限は短い。しかも、ベターには必ず限界があります。リクライニングなら180度で行き着く。ダイエット本なら「1日10分」が「5分」「3分」「2分」になり、最後は「ゼロ分」になってしまう。そこまで行くと、もはや競争としての面白みも価値も薄れていきます。
つまり、ベターを追いかける競争は、企業にとって長期的な利益を生みにくいのです。なぜなら、それは誰もが同じ方向へ走る競争だからです。お客さんにとって良いことであればあるほど、他社も同じようにやろうとします。
③ 本当に見るべきは「戦略」である
だからこそ、戦略とは「より良いこと」ではなく、「違うこと」なのです。競争相手とは違うポジションを取る。その結果として、ある部分がベターに見える。順番はそこなのだと思います。
多くの企業は、この順番を間違えます。表に出ている「ベター」を見て、それを真似しようとする。しかし本当に見るべきなのは、そのベターを生み出している大元の戦略です。なぜそれができるのか。何を捨てたから、それが可能になったのか。そこに目を向けなければ、戦略にはなりません。
サウスウエスト航空が証明した「戦略とは何をしないか」である
① 安い運賃は「戦略」ではない
楠木氏は、その象徴的な事例として、サウスウエスト航空を挙げました。現在で言うLCCの原型とも言える会社です。
LCCというと、まず思い浮かぶのは「運賃が安い」ということでしょう。つまり、利用者から見るとベターです。安く移動できる。気軽に飛行機に乗れる。これは大きな価値です。
しかし、楠木氏が指摘したのは、「安い運賃」は戦略そのものではないということでした。それは戦略の結果です。どの航空会社も、できることならコストを下げたい。どの会社も、安く提供できるならそうしたい。では、なぜサウスウエスト航空にはそれができたのか。そこに戦略があります。
鍵になっていたのは、固定費の低さです。飛行機は飛んでいる時に価値を生みます。地上に止まっている時間が長ければ長いほど、資産の稼働率は下がります。だから航空会社にとって、機体をどれだけ効率よく回せるかは非常に重要です。
② 「何をしないか」が競争力を生む
サウスウエスト航空は、空港での折り返し時間を大幅に短くしました。業界平均が55分程度だった時代に、15分で次の便を飛ばしていたといいます。これだけ見ると、「サウスウエストは作業が速い」というベターに見えます。
しかし、ここでも大事なのは、その速さがなぜ生まれたのかです。
サウスウエスト航空は、ハブ空港を使わない。乗り継ぎを前提にしない。機材はボーイング737に統一する。座席指定をしない。機内食を出さない。こうした選択を積み重ねました。
つまり、何をするか以上に、何をしないかを決めていたのです。
大規模なハブ空港を使わなければ、空港使用料も抑えられ、混雑による遅れも減ります。乗り継ぎを前提にしなければ、他の便の到着を待つ必要がありません。機材を737に統一すれば、整備や乗務員の運用も効率化できます。座席指定をしなければ、搭乗も早くなる。機内食を出さなければ、準備や積み込みの手間も減ります。
その結果として、折り返し時間が短くなり、機体の稼働率が上がり、固定費が薄まり、安い運賃が実現できるわけです。
ここに戦略の本質があります。表に出てくるのは「安い」「早い」「便利」というベターです。しかし、その裏側には、「やらないこと」の選択があります。
経営者が考えるべきなのは、この部分です。ところが、企業はしばしば表面のベターだけを追いかけます。サウスウエストの運賃が安いから、自社も安くしよう。折り返しが早いから、自社も早くしよう。けれども、その前提となる選択をしないまま真似をしても、同じ結果は生まれません。
③ リーダーが決めるべきこと
戦略とは、掛け声ではありません。「もっと速く」「もっと安く」「もっと便利に」と言うことでもありません。むしろ、経営者が責任を持って決めるべきなのは、「これはやらない」ということです。
なぜなら、資源には制約があるからです。人も、時間も、お金も、無限ではありません。すべてをやれる会社などありません。だからこそ、何をやり、何をやらないかを決める必要があります。
現場から「これはやめましょう」と言うのは難しいものです。なぜなら、やめることはサボりに見えることがあるからです。だからこそ、リーダーが「やらないこと」を決めなければならない。
楠木氏の話が鋭いのは、戦略を「何を目指すか」ではなく、「何を捨てるか」として捉えている点です。そこに、AI時代にも通じる本質があります。
AIは人間を超える。それは技術として当然である
① 技術は人間を外部化する
ここまで戦略について語ってきた楠木氏は、その視点を生成AIへと移します。
世の中では、「AIが人間を超える」「仕事を奪われる」といった議論が数多く交わされています。しかし楠木氏は、その議論自体が少しずれていると言います。
そもそも技術とは、人間がやっていたことを外部化するために生まれるものだからです。
例えば、蒸気機関が登場する以前、人は重い荷物を自分の力で運んでいました。しかし蒸気機関が生まれたことで、人間が力仕事をする必要は大きく減りました。
鉄道も同じです。人間より新幹線のほうが速いのは当たり前です。飛行機のほうが遠くまで飛べるのも当然です。もし新幹線より人間のほうが速く走れるのであれば、新幹線という技術そのものが存在する意味はありません。
つまり、技術とは、人間を凌駕するために存在しているものなのです。
だからAIも、人間より速く文章を書き、情報を集め、整理し、翻訳し、要約する。それは驚くべきことではなく、技術として極めて自然な姿だと言えます。
② AIもインターネットと同じ道を歩む
楠木氏は、生成AIもインターネットと同じ道をたどるだろうと話しました。
インターネットが普及し始めた頃、「インターネットを活用している企業」がニュースになった時代がありました。しかし今では、「うちはインターネットを使っています」というだけで競争力になる会社はありません。
AIも同じです。
これから数年が経てば、AIを使うこと自体は特別なことではなくなります。AIはさらに安くなり、さらに使いやすくなり、多くの人が当たり前に使うようになるでしょう。
そうなると、「AIを使っています」という事実だけでは、企業の差別化にはなりません。
むしろ、AIはスキルを持たない人ほど恩恵を受ける技術だと楠木氏は言います。
翻訳、要約、文章作成、資料作成など、これまで一定の訓練が必要だった仕事は、AIによって誰でも一定水準までできるようになります。
それは社会全体にとって非常に良いことです。スキルが民主化され、多くの人が高度な仕事に挑戦できるようになります。
しかし、その一方で、企業経営という視点から見ると、新たな問いが生まれます。誰でも同じ水準まで到達できる世界で、企業は何によって違いを生み出すのか。楠木氏は、その問いに対する答えを、戦略という考え方の中に見いだしていました。
AIが生み出すのは「平均」であり、「戦略」ではない
① AIは「平均」を返す技術である
楠木氏は実際に、自身の専門分野について生成AIへ質問した経験を紹介しました。
AIは、瞬時にそれらしい答えを返します。しかも、追加で質問を投げかけると、さらに詳しく説明してくれます。一見すると、十分納得できる内容です。
しかし読んでみると、「分かっているようで、分かっていない」と感じたと言います。その理由は、AIが未熟だからではありません。
むしろ逆です。
AIは技術として成熟するほど、より大量の情報を学習し、より確率の高い答えを返すようになります。
つまり、より「平均的な答え」に近づいていくのです。
② なぜAIは独自性を生めないのか
AIが学習しているのは、インターネット上に存在する膨大な情報です。その中から、多くの情報に共通する内容を整理し、「もっとも確からしい答え」を提示します。だからAIが出す答えは、多くの場合、間違ってはいません。しかし同時に、独自でもありません。
楠木氏は、自身が参加した太平洋戦争に関する討論会を例に挙げました。AIに「なぜ終戦が遅れたのか」と尋ねれば、歴史上語られてきた理由を整理して提示してくれます。さらに、「箇条書きではなく、一番重要な理由を説明してほしい」と指示すれば、それらしい論理も組み立ててくれます。
それでも、その内容を専門家ばかりが集まる討論会で自分の意見として話せば、おそらく評価されないだろうと楠木氏は言います。
なぜなら、それは誰もが知っている情報を整理しただけだからです。 ここに、AIの本質があります。AIは、供給を爆発的に増やす技術です。
文章も、画像も、企画も、アイデアも、大量に生み出せます。しかし供給が増えるほど競争は激しくなります。結果として、市場ではますます独自性が求められるようになります。この構造は、講演の前半で語られた「ベター」の話と重なります。
AIは非常に優秀です。しかし、その優秀さは、多くの人にとって使いやすい「ベター」を大量に生み出す方向へ向かいます。だからこそ、それだけでは企業の差別化にはなりません。
③ AIは戦略を決められない
AIは、選択肢を提示することは得意です。それぞれのメリットやデメリットも整理できます。しかし、「どれを選ぶべきか」という問いには答えられません。なぜなら、その答えには正解がないからです。
戦略とは、どちらが正しいかを選ぶことではありません。どちらも良い選択肢の中から、自分はどちらを選び、何を捨てるのかを決めることです。
つまりAIは、戦略の材料は作れても、戦略そのものは作れない。ここに、人間が担うべき役割が残っているのです。
AI時代に問われるのは、スキルではなく「何を捨てるか」というセンスである
① 戦略とはトレードオフである
楠木氏は講演の最後に、戦略的意思決定とは何かを改めて語りました。戦略には正解がありません。もし正解があるのであれば、それは誰もが同じ答えを選びます。そうなれば差別化はなくなり、それはもはや戦略ではありません。
戦略とは、「どちらが正しいか」を選ぶことではなく、「どちらを選び、どちらを捨てるのか」を決めることです。
つまり、トレードオフです。
何かを選ぶということは、同時に何かを諦めることでもあります。だからこそ、経営者の仕事は、「もっと良くしよう」と掛け声をかけることではありません。「これはやらない」「ここには行かない」と決めることです。
その決断こそが、企業の違いを生み出します。
② AI時代だからこそ戦略が必要になる
この考え方は、そのままAIとの向き合い方にも重なります。生成AIは、これからますます進化するでしょう。文章を書くことも、資料をまとめることも、翻訳することも、企画のたたき台を作ることも、今以上に当たり前になります。
つまり、AIを使うこと自体は競争力ではなくなります。講演でも語られたように、インターネットが特別ではなくなったように、AIも社会インフラの一部になっていくはずです。
だからこそ、人間がAIに対して「速さ」や「知識量」で勝負する意味はありません。そこは、AIが得意な領域です。
しかし、だからといって、人間の価値がなくなるわけではありません。むしろ逆です。AIが示す答えは、多くの情報を集めて導き出した「もっとも確からしい答え」です。言い換えれば、平均へ向かう力です。
一方で、企業が競争の中で利益を生み続けるためには、平均では足りません。競争相手とは違う場所に立つことが必要です。
そのためには、「どちらが正しいか」ではなく、「自分は何を選ぶのか」という判断が欠かせません。その基準は、AIの中にはありません。
楠木氏は、「基準は経営者の中にしかない」と語りました。だからAIは、戦略の選択肢を整理することはできても、最後の意思決定までは代われません。
どの市場で戦うのか。誰のために価値をつくるのか。何をやらずに、何へ資源を集中するのか。
そこには、外から与えられる正解はありません。だからこそ、AI時代になればなるほど、人間に求められるものはスキルではなくなります。
③ AIの時代、人間に残る仕事とは
必要なのは、自らの価値観を持ち、何を捨てるかを決めるセンスです。AIは、企業をより効率的にしてくれるでしょう。
しかし、企業を「選ばれる存在」にするのは、戦略です。そして戦略とは、便利さの先にあるものではありません。
何を足すかではなく、何を削るのか。何を知っているかではなく、何を信じて選ぶのか。
楠木氏の講演は、AIという新しい技術を語りながら、その先にある経営の本質を改めて問いかけているように感じました。
今日はこの辺で。